「生−政治」(メモ)

承前*1

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

大貫恵佳「身体をめぐる2つの権力――ミシェル・フーコーと「動物化」の議論――」(『コロキウム』2、pp.103-119、2006)の続き。第4節「「生−権力論」再考」(pp.112-116)。
「生−政治」の「隠された機能」。フーコーは明確には述べていないが、ジョルジョ・アガンベンが明らかにしている(p.113)*2


生−政治は、「人間的」、「社会的」生を営む人間や「法的主体」にではなく、「生物学的」な存在としての人間に注意を向けるものであった。だが、この「生物学的」な存在の領域とそれ以外の領域との区別はどのように設定されるのか。アガンベンが光を当てたのはこの点である。その決定を行うのもまた生−政治にほかならない。生と死の境界は、文化的変容とともに変化するものである。現代ではその判断基準は医学が担っている。つまり、生―政治は、政治の対象として「たんに生きている」という事実、人間の内部のある特定の領域を必要とするが、その領域もまた自らの作動によって作り出しているのである。(略)生―政治は、一方で自らの対象を定めるために歴史の外部としての生を必要とする。だが、その必要性そのもののために、その生は歴史の内部に置かれる。つまり、生は生−政治によって作られ、かつ生−政治が作動する前提条件となるのである。さらに興味深いことはその分割の作動の基本的な前提として、分割以前の状態というものが想定され続けるという点である。歴史と生、人間的なmぉのと動物的なものが「自然に」通い合っているという状態(両者の「未確定領域」(Agamben [2002=2004:60*3])が、分割以前の状態として必要とされるのだ。だから、生―政治以前の「人間」なるものを想定し復活させようとする企て自体が、生−政治に巻き込まれるという複雑な事態が生じるのである。(pp.113-114)
法ならざる「法」としての「生−政治」;

ここで注意すべきなのは、生−政治のこうした働きが、法の働きと一致することである。法の二元論的な分割の作動は、法的主体という擬制を自身の作動のために産出する。そしてそれは同時に法的主体の外部と、前提としての「自然状態」とを産出しているのである。生−政治もまた、二元論的な分割を行い、人間的な生と動物的な生を分割する。そのとき、動物的な生が創出されるのと同時に人間と動物の自然な通い合いというものも想定されるのだ。つまり、生−政治はたんなるテクノロジーではなく、原理的には、生−権力の時代における法なのである。法がイデオロギー的幻想を必要とするように、原理的には、生−政治もまたそれを必要とする。
たしかに、生−政治は法と全く同一なわけではない。第一に、生−政治が行う分割について考えれば考えるほど、それはあらゆるカテゴリー化、すなわち言語活動の基本的な前提と重なり合ってしまうということが挙げられる。人間の言語活動は、言語以前のものをつねに創出することによって成立しているのであり、そのことによってその言語以前のものは言語活動のうちにとらわれることとなる。生−政治が必要とする「生物学的」な存在は、その言語以前のものと一致し、私たちの思考の限界にあるかのように機能するのである。そうすることで、私たちの思考を拒むのだ。そしてそれと関連する第二の点としては、その分割の作動が様々なテクノロジーによって覆われているために、分割それ自体の働きが見えにくくなるということが考えられる。端的に言えば、生−政治は法よりも私たちにとってさらに「議論の余地のない」ものとして現れるということだ。そして最後に、この分割線は、私と誰かのあいだ(法的主体と「怪物」のあいだ)にではなく、私の内部に惹かれるものなのだ。自分のなかのある特定の領域が標的になっているという事実は、幻想に対する疑念を減少させ、それを「幻想」ではなく「自然な属性」として受け入れやすくさせるのである。(p.114)
自己言及的に構成(捏造)される〈起源〉、〈以前〉ということに関しては、中島隆博『残響の中国哲学*4をマークしておく。
残響の中国哲学―言語と政治

残響の中国哲学―言語と政治

2つの「動物化」;

再び、東の「動物化」の議論に戻ろう。東の「動物化」という語とアガンベンの「動物化」という語は偶然にも一致しているが、この両者は、異なる事態、異なる権力形態を記述している。東の言う「動物化」は規律訓練(環境管理)に、そしてアガンベンの「動物化」という語は生−政治に対応するものなのである。そしてこれら2つがともに存在してはじめてフーコーの言う「生−権力」が完成するのだ。(p.115)
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)


フーコーの]『監獄の誕生』においては、法と規律訓練、そして『知への意志』においては生−政治と規律訓練が、権力の主要な働きとして描かれ、これら2つはそれぞれ全体化と個別化という機能を引き受けていた。もし私たちが、生−政治の機能を無視するのであれば、それは逆説的にも生−政治への従属を意味する。この概念は、生−政治が人間を「動物」化しているにもかかわらず、東が規律訓練(環境管理)の所産であるところの人間を同じ「動物」と呼ぶことで強化される。フーコーが、改革的な法学者たちを批判した際には、その批判は規律訓練型の権力によって産出されるそれぞれの身体を、法の言語によって「法的主体」として思考する欺瞞に対しても向けられていた。今、規律訓練型の権力によって産出される存在を「動物」と呼ぶことは、生−政治の言語で「生物学的存在」として私たち自身を思考することに暗黙のうちに繋がってしまう。これでは、規律訓練型の権力をかつて法に従属させたのと同様に、生−政治に従属させることになってしまうのだ。(略)フーコーは、規律訓練が照準を定めている身体を「機械」と呼んでいた。動物と機械、そしてそれぞれに対応する生−政治と規律訓練。ひとつの社会にこうした2つの権力形式が存在することと、それらが因果関係や主従関係をあらかじめ取り結んでいるということとが決して混同されてはならない。私たちが後者の立場をとるのならば、原因となる権力形式が結果として引き起こされる形式を支配しているということになり、結局はひとつの権力形式についてしか考慮していないということになる。2つの権力形式が並存するということは、両者の関係は固定されえずそのつど新しく結ばれる可能性を持つということだ。関係性とは、むしろ両者にあらかじめ関係がないからこそ生じるものなのだ。だから、法的なシステムに付随する大文字の他者はもはや絶対的な審級ではない。おそらくこうした認識から発してはじめて、一方が他方を利用したり、逆に一方が他方に搾取されたりと、そのつどの関係性に対する批判が可能となるのであろう。そしてそこに結ばれた関係性や無関係性において、私たちの社会と私たち自身に対する思考が開かれるのである。(p.116)
ここでニクラス・ルーマンという名前を呼び出すことはそう的外れなことではないだろう。「結ばれた関係性や無関係性」に関しては、フーコーよりもルーマンの方がさらにラディカルなのではないか。ここで取り敢えず、馬場靖雄ルーマンと自己組織性」(in 『危機と再生の社会理論』、pp.253-268)をマークしておく。
危機と再生の社会理論

危機と再生の社会理論

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090607/1244348445 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090608/1244479972

*2:ここでアガンベンのテクストとして参照されているのは、『ホモ・サケル』と『開かれ――人間と動物』。遺憾ながら、どちらも読んでいない。

*3:『開かれ――人間と動物』

*4:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090601/1243857543