第三章「主体間性理論的生存論形態」、二「対個体性的張揚與向類的回帰」、(二)「“類”的呼喚與向“共同体”的回帰」。
ここでは、マルティン・ブーバーが論じられているが、その批判的纏め(pp.127-128);
a)「本体論的浪漫化闡釈」――「馬丁・布伯将関係解釈為単純的我−〓*1関係、這是本体的詩化」。
「本体論」――ontologyの意なり。但し、この本では「存在論」という言葉もまた使われている。
b)「対主体性原則的批判也失之於簡単化」――「主客二分是人的存在方式的内在性特質、絶対地批判対象化実質上就是否定人的存在的可能性、超越也是在分化的基礎上進行的」。「対象化與異化混為一談」――『歴史と階級意識』においてルカーチが犯したのと同じ「錯誤」。
「異化」――alienation。日本語でいう疎外。
c)「対主体間関係的低位過於理想化」;
d)「馬丁・布伯的生存理念缺乏歴史的厚重感、而這来源於他的浪漫主義和理想主義。所以、在根本上、対人類的生存関係進行浪漫主義的詩意反思、其誤区在於割裂了理想性與歴史性的統一」
主体間関係的合理性、不在於以我−ni関係取代我−它関係、而在於人是否能以完整性来展現主体與主体之間的関係。人的存在是完整性的、豊富性和全面性的、功利、真、善、美以及愛這幾者是不能完全脱離的、也不是絶対対立的。
ところで、その次の「逡巡於生存論與歴史視野之間」という節で、メルロ=ポンティとサルトルが論じられているのだが、その中の「梅洛−〓*2蔕曽借胡塞爾的助手、社会学俗民方法的代表芬克之口指出、反省離不開世界、反省之所以向後退、進行還元、是為了能看見超越性的東西的涌現、反省之所以松開把我〓*3與世界聯系在一起的意向之線、是為了使意向之線顕現出来」(p.133)とあり。ここでいう芬克はフッサールの助手だったEugen Finkのことなのだが、「社会学俗民方法」とは? もしかして、FinkとGarfinkelが混同されている?