修正主義か

大野左紀子「美術史は歴史修正主義のカタマリ」http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20130902/p1


曰く、


美術史に限らず、歴史は「上書き」されるものだけれども、美術史ではそれが顕著だ。美術の「歴史修正主義」においては、あったことを全然なかったことにはしないが、重み付けはかなり変わる。そこで行われているのは意図的な「記憶喪失」と「記憶の捏造」(もちろん記憶とは捏造されるもの)。「歴史修正主義」は美術においては批判されるべきことではなく、「新たな視点の導入」「新しいアートの見方」として歓迎されることが多い。
その例として、「今でこそアメリカで大々的に回顧展が開かれるまでになっているが*1、70年代の日本の現代美術シーンを席巻した「もの派」は80年代後半から90年代以降、ほとんど再評価・批評の対象になっていない」ということが述べられる。また、

歴史修正主義と言うと政治の論争になるのだけど、アートはむしろ歴史修正主義のカタマリ。というか、それまでの歴史を誰がどう書き換えそれを「正史」とするかの、闘争の歴史だった。たとえば椹木野衣企画の『日本ゼロ年』展(1999〜2000、水戸芸術館)は「リセット」を謳って、現代アート村上隆会田誠など(奈良美智の名を出したけど入ってなかったですね、すみません)から岡本太郎横尾忠則、そして成田亨でしたっけ‥‥(すかさず速水・斎藤両氏*2から「特撮の怪獣の‥‥」とフォローあり)まで入れていた。アートからサブカルまで横断的に。でもラッセンはそこから漏れていた」
これって、所謂「歴史修正主義」とはちょっと違うだろう。「歴史修正主義」論争において争われているのは先ず何よりも〈事実〉だろう。例えば、


南京大虐殺はあった/なかった
ナチスガス室は存在した/しなかった


とか。この〈事実〉問題の上で、今度は解釈(意味)の問題が争われることになる。ここで謂われるところの「歴史修正主義」は〈事実〉を巡っての争いではなく、「重み付けはかなり変わる」と言われているように、解釈或いは意味(significance)を巡る争いである。それは、私たちの世界経験というか〈知覚の構造〉(地−図構造)によるものだと言えるだろう*3。或る部分にピントが合ってしまえば、残りの部分は多少なりともぼけざるをえない。或る部分にスポットライトが当たってしまえば、残りの部分は相対的に暗くならざるをえない。そういうことだ。