kmizusawaさん*1は書いている;


人間の三大欲って「性欲、食欲、日光浴睡眠欲」かと思っていた。…いや「性欲」ももはや怪しい。誰もがセックスしたがっているわけではない。

私の考える人間の三大欲は「食欲、睡眠欲、排泄欲」…無視してると死ぬし。

でも意識不明の状態で寝ている人には食欲も排泄欲もないだろうなあ(たぶん)。

そして「教育欲」だが、こういうことを本能だと言いたがる人(文脈がよくわからないので、もしかしたら、なんでも「教育」と言いたがる人を揶揄して言われている言葉なのかもしれませんが)から抽出される「他人に言うこときかせたい欲」とか「他人に対して偉そうにしたい欲」のほうがむしろ「本能」扱いするにはふさわしいような気がする。

「睡眠欲」と「排泄欲」というのは「欲」なのかな。仮令「無視」して、放っておいても、勝手に眠りこけてしまうわけだし、また後者の方も放っておけば勝手に垂れ流されてしまうわけでしょ。欲すると欲さざるとに関わらず。
「教育欲」ですか。「教育」というのはある意味で社会にとっては必要悪ですよね。つまり、対等な関係が望ましいのだけれど、子どもを対等な人間にするためには「教育」しなければいけない。寧ろ「教育」的な関係から逃れたいという欲望の方が重要だと思う。その逃走の欲望は例えばインターネットの発展をも部分的には動機づけていた筈だ。理想主義的にいうところの対等な議論と情報交換の場としてのインターネットには本来「教育」的関係の入り込む余地はない筈だ。MLとかにしても、DQNな発言が頭を痛くさせるというのは、そこでは存在してはいけない筈の「教育」的モードに心ならずも態度変更を余儀なくされるからである。勿論、「教育欲」の強い人は、そういう場合、待ってましたとばかり、「教育」的モードをフルに充満させる。そうすると、さらに頭痛は悪化する。
 グルメというのは「食欲」とは違うのだろうけど、注目すべきは、グルメな欲望の充足というのは、徹底的な受動態において為されるということである。勿論、かぶりつくとか飲み込むことは能動的なことなのかも知れないけれど、〈味わう(taste)〉ということは、徹底的な受動性において起こるからである。食べ物や飲物が感覚器官に浸透するときに、私たちは味わうのであって、ここで能動的な働きをするのは私たち(感覚器官)ではなくて、食べ物や飲物である。味わうために屡々要請される所作が〈噛み締める〉ことだというのは興味深い。それは〈飲み込む〉という能動性の停止だからである。tasteは〈趣味〉でもあり、もしそうであるなら、性欲にせよ、知識欲にせよ、大方の欲望の充足は本源的な受動性においてなされるということになる。マッチョに欲望を充足させようとしても、それは根本的に無駄である。何故なら、そこでは肝心要のtasteという出来事が隠蔽されてしまうのであるから。