そもそもデモクラシーというのは

terracaoさん*1


僕は良くわからないのですが、「政治に国民の関心が集まる」というのは何故良いことなんでしょうか?昨年の総選挙ではたしかに国民の関心が高まったのかもしれませんが、だから何だ?という気がしますが。。。


国民の意識があがるということは、1票の重みが相対的に軽くなることを意味します。10人しか投票しなかった時のAさんの「反対」票はかなり強力な影響力をもちますが、1万票の中ではたいして問題になりません。


世の中には、絶えず政治に関心を持ってなくてはならない人たちがいます。自分の生活に直接かかわる「予算」を勝ち取らなくてはいけない人たちです(例えば障害者とか高齢者とか)。もし予算を削られるような法案が可決してしまったら、それこそ首をくくらなければならなくなるような切迫した人も中にはいるかもしれません。その一方で、そういう「予算」にまつわる利害関係とはとりあえず無関係、あるいは関係が薄い人たちもいます。でもこの人たちはそういう利害関係に幸か不幸か巻き込まれていないので、大して政治に関心をもたず、その時の気分で投票に行ったり、行かなかったりします。まさに浮動票です。そして現行の憲法ではこのどちらの立場の人たちそれぞれに等しく1票が与えられています。いわゆる「平等権」ていうものです。


そうした「直接政治と関係のない有権者」が選挙に行ったり行かなかったりして、投票率が低迷していたからこそ、「切迫した有権者」の声が通りやすかったのだと思います。しかし、郵政民営化小泉チルドレンや「刺客」は国民の関心を上げることによって、「切迫した有権者」の声を矮小化しました。

と書いている。全面的に賛成はしないけれど、検討するに値する問題ではある。
まず、小泉的ポピュリズムを批判する志は可なり。「投票率が低迷していたからこそ、「切迫した有権者」の声が通りやすかったのだと思います」というが、それは歴史的事実だったのだろうか。また、「絶えず政治に関心を持ってなくてはならない人たち」と「「予算」にまつわる利害関係とはとりあえず無関係、あるいは関係が薄い人たち」との差異は、アプリオリで絶対的なものなのだろうか。勿論、そんなものを外在的に振り分けることはできない。寧ろ、小泉政治パラドックスというのは(第三者的に見て)小泉政治によって損をするであろうような人々が小泉を支持してしまうということにある。その中には、「切迫した有権者」になったかも知れない人々もいるかもしれない*2
「弱者の声が多数決の名のもとにかき消される」って、デモクラシーを字義通りに取れば、そういうことになるでしょう。そもそも問題なのは〈主権(sovereign)〉ということなのだけれど、この問題はパスするとして、君主であれ、人民であれ、主権者の横暴に歯止めをかけるためにこそ、憲法が要請される。デモクラシーは立憲主義によって補完されなくてはならず、それによって、君主も人民も〈超憲法的〉存在ではなく、憲法内的存在としてドメスティケイトされる。マイノリティの利害=関心が取り敢えず否定されないでいるというのもこれによってである。立憲主義による歯止めはあるものの、「多数決の名のもと」での*3マイノリティの圧殺というのは、デモクラシーのリスクである。国民はお慈悲などとは無縁なので、マイノリティにとっては、かつての君主によるパターナリスティックな庇護というようなものも簡単には期待できない。君主制か共和制かという問題と同様に、デモクラシーか否かという選択は、究極的にはリスク計算などを通り越した実存的決断とならざるをえないだろう。危険なデモクラシーなどやめて、慈悲深き天皇や前衛党の叡慮に委ねるというのも、一つの決断ではある。そうではない場合、そうではない決断をするならば、それを前提にリスクに対処しなければならない。あくまでも〈決断〉が先立つ。
 とはいっても、〈普通選挙〉への懐疑ということは共有する。これはハンナおばさんが『革命について』の「革命的伝統」をトレースしたクライマックスの部分でやはり論じていた主題。ハンナおばさんの議論は〈参加民主主義〉に繋がるわけだが、terracaoさんのように、〈投票〉という枠内で思考する場合、〈余計な奴は投票しないで寝てればいいのに〉という森前総理的な期待か、〈制限選挙〉という方向に流れていくのではないか。皇族でもないのに、政治への参加そのものを制限されるというのは、はたして受け容れられるのか。「直接政治と関係のない有権者」なら別に構わないというかもしれないが、そのカテゴリー自体がアプリオリでも絶対的でもないということは上に述べた。
 一つ考えられるのは、〈マニュフェスト選挙〉というのには希望があるのではないかということである。それを徹底すれば、選挙は白紙委任でも候補者の人格への投票でもなくなる。投票は具体的な政策への賛成・反対ということでしかない。そうであれば、政治家が(どんな事情であれ)〈マニュフェスト〉に反して振る舞った場合、〈マニュフェスト〉が書かれた時点では想定不可能であった事態が出来した場合、当然〈委任〉の契約には皹が入り、事態は流動化する。そこに〈参加民主主義〉の居場所が空けられるのである。
ところで、私が「多数決の名のもとに」ということに反対するのは、何よりも世界を護るためである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/terracao/20060103

*2:政治においては、そういうことは稀なことではないだろう。多くの社会主義者ブルジョワの出身であり、この人たちは自らの階級的利害に反して、思考し・行為したということになる。

*3:多数意志は常に「一般意志」であるかのように振る舞い、そのように現象するという問題も重要である。