植え付けられても発芽するとは限らず

『朝日』の記事なり;


日本の伝統、文化「学校現場で植え付けを」 小坂文科相
2006年09月02日19時15分

 小坂文部科学相は2日、教育基本法改正案の「愛国心」に関連し、「日本の伝統、文化、芸術、音楽について、学校現場でしっかり植え付けていくことが必要だ」と述べた。青森県八戸市で開かれた「教育改革タウンミーティング」で、会場からの質問に答えた。

 閉会後の記者会見では、「教育改革について内閣がリーダーシップをとるという意見があることは共鳴できる」と話した。

 さらに、義務教育費国庫負担金の負担率が2分の1から3分の1に引き下げられたことで、「都市と地方との格差が生じる」と指摘。同法案の早期成立とともに教育振興基本計画の速やかな策定を目指し、「地方自治体に必要な教育予算を確保するよう、対話を通じて働きかけたい」と述べた。
http://www.asahi.com/national/update/0902/TKY200609020251.html

これに対する反応としては、「植え付けていく」という言葉遣いに対する反発がある*1。記事によれば、これは「質問」に対する応答として発せられたものなので、「質問」の方が明らかでなければ応答の意味内容を明らかにすることはできないだろう。何しろ、答えというのは問いの中に既にオンティッシュな仕方で含まれているわけだから。ただ、私の語感に依拠して言えば、「植え付ける」という言葉は、例えば〈戦後教育によって自虐的な歴史観が植え付けられている〉云々というふうにネガティヴな意味合いで使用するのを常としていた筈。それがここでは(発話者の主観にとっては)ポジティヴな意味で使用されているのだから、もしかしたら、この発話は日本語の歴史を画するものになるのかもしれない。
「植え付ける」から「脳に田植え」*2を連想する向きもある。ところで、cultureという言葉も農業と関係があるな。思うのだが、「植え付け」たって、発芽するとは限らない。また、特に「植え付け」なくても、どっかから種子が風かなんかで運ばれて、自然と発芽し、さらには繁茂してしまうということだってある。また、私たちの知識、習慣、さらには感性といったものは、そもそも私たちのものではない。元を辿れば、誰か(誰かって誰?)に「植え付け」られたり、どっかから飛んできたものだ。ただ、そうした外部性に気付かないほど、私たち自身に癒着しているだけなのだ。そこを敢えて、自明性を乗り越え、その外部性を反省的に恢復するというところに、(文化人類学的な意味ではない)文化が存立する余地があるというのはどうだろう。何かをするというのは、意識するしないにかかわらず、何らかの〈伝統〉に参与することである。日本語を話す、そのことによって、私たちは日本語という〈伝統〉を維持したり・改変したりする権利と責任を得ることになる。これについては、科学という〈伝統〉に関して、トーマス・クーンは「科学共同体(scientific community)」という言葉を使って論じている。
それはともかくとして、書物のような物質的な文化資本は当然財産として相続されるだろうが、〈伝統〉は相続することはできない。「植え付け」ようとしたって成功するとは限らないし、相続したいとこちらから〈伝統〉に飛びついてみたって私のものになるという保証はない。そのくせ、知らないうちに、そして相続しようとも思わないのに、私たちには幾つもの伝統が棲みついてしまい、私の感性や振る舞いを左右しているということもある。しかしながら、まさにそのようなものとして、〈伝統〉というのは(原理的には)誰もが(血縁とか国籍とかに関係なく)参入することができるものとして存立している。その存在を知ってさえすれば。その存在を(噂以上の確かさでもって)知らしめるという意味では、〈伝統〉を教育するというのは意味あることだ。それを得ようとするにせよ拒否しようとするにせよ、その選択肢を知るというのは、ある意味で人間としての基本的権利に属するかもしれない。
「植え付ける」という言葉は下品で使いたくないのだけれど、http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20060831#p1は〈教える〉ことへの欲望を巡る美しいテクスト。しかし、上述のような限界はそもそもビルト=インされているわけだが。


〈伝統〉ということですけれど、http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_fb7d.htmlでは、チョーサーの時代の英語で書くblog*3が紹介されている。また、うにさん曰く、「日本でも古文で書いてるブログとかあるのでしょうね。ご存じでしたらご一報を」。