全体と部分

承前*1

『朝日』の記事なり;


教育行政、「不当支配にあたらず」 国会審議で文科相
2006年11月22日19時47分

 伊吹文部科学相は22日の参院教育基本法特別委員会で、9月の東京地裁判決が日の丸・君が代をめぐる教育委員会の通達を「不当な支配」にあたるとした問題に関連し、法律や政令、大臣告示などは「国民の意思として決められた」ことから、国の教育行政が「不当な支配」にあたることはないとの認識を強調した。

 教育基本法には「教育は、不当な支配に服することなく」とした条項があり、教職員組合などが教育行政による教育現場への介入を阻止するための「盾」と位置づけていた。東京地裁判決では、学習指導要領に基づき国旗掲揚・国歌斉唱などを強要する都教委の通達や処分は「不当な支配」にあたると判断された。

 しかし、伊吹氏は、この条項は、教育行政に対して「政治結社、イズム(主義)を持っている団体の介入を排除する」規定だと説明。政府の改正案で「(教育は)法律により行われるべきだ」との文言を追加したことで、趣旨が「法律的に明確になった」とした。

 ただ、地方自治体の首長は選挙で選ばれるが、「ある政党の支持を受けた首長が、国全体の意思と違った教育を行う場合、それは不当な支配になる」とも述べた。

 一方、安倍首相は、国旗・国歌への対応について「学校のセレモニーを通じて敬意・尊重の気持ちを育てることは極めて重要だ」と強調。「政治的闘争の一環として国旗掲揚や国歌斉唱が行われないのは問題だ」と述べ、一部の教職員組合などを批判した。
http://www.asahi.com/politics/update/1122/010.html

ごく単純化してしまうと、政府に(仮令消極的であっても)逆らってはならないということか。「自民党だって公明党だってサヨク攻撃する右派の人たちだって何かしらのイズムはあると思うんだが、それはかまわないんですかね」とkmizusawaさんも突っ込んでいるけど*2、ここで前提となっているのは、全体と部分についてのある種の理解だ。部分(例えば、組合とか野党とか地方自治体)は偏っているけれど、全体は偏っておらず、公正であるという理解。たしかに、理論的にはそうである。しかし、政府がここでいう意味での〈全体〉を称することができるのだろうか*3。政府=〈全体〉を称することは、ある種の宗教的伝統においてはそれだけで〈神への冒涜〉を構成してしまう可能性があるわけで、これは重要な問題ではあるが、ここでは脇に置いておく。実際は、客観的な意味において政府(及びそれを与る政党)は全体ではない。多数派であることは認めなければならないが。にもかかわらず、政府は共同体としての国民の名において行政その他を行う。それを完全に否定することは今はしない。しかし、それには幾つかの条件があることは明らかだろう。つまり、国民という共同体内部の考えられる限り全ての顕在的・潜在的な部分を考慮したものであること、全体に包摂されえない或いは包摂されることを拒む少数派が沈黙し、或いは異議を申し立てる権利を保証すること、すなわち脱構築的意味における正義が生成する可能性を肯定すること、以上の理由によって、それは取り敢えずの全体であって形而上学的意味における全体ではないことを明示すること。因みに、部分的でしかあり得ない者が身の程知らずにその部分性を隠蔽し、全体性を僭称するとき、その主張はイデオロギーと呼ばれる。多分、伊吹という人にしても、首相にしても、例えば徴兵制のある国で何故〈良心的兵役拒否〉というのが制度化されているのかというのは理解できないのではないか。
ところで、伊吹という人は「国民の意思」を持ち出している。ここで、その「国民の意思」というのが〈やらせ〉によって捏造されたものかどうかは突っ込まない。「国民の意思」によって自らを正統化するのは〈民主主義〉におけるゲームの規則であり、彼もそれに従っているにすぎない。寧ろ、捏造してまで「国民の意思」を示そうとするその〈民主主義〉へのコミットメントと熱意を〈民主主義者〉たちは褒めてあげるべきではないか。ここでは反〈民主主義〉的な批判を行う。「国民の意思」というのは海馬のつまり主観性である。それも理性的判断ではなく、気分とか動物的な条件反射も含んだ。また、それは株式相場並みには乱高下するものだろう。これを突き詰めれば、国事は全て集合的な気分の変化に左右されることになってしまう。これでは、少数派はたまったものではない。自らの生死そのものが政権を握った国民の気分によって左右されてしまうからである。だからこそ、憲法的秩序は政府に箍を填めることを通じて、それを基礎付ける「国民の意思」に箍を填めているといえる。また、これは世界には「国民の意思」を超越するものがあるということの承認でもある。さらに、教育基本法の「不当な支配」云々というのも、こういう文脈で理解されるべきだろう。つまり、教育にはその時々によって気紛れに変動する「国民の意思」(或いはそれを後ろ盾とする政府の意思)に左右されることを拒む普遍的なものがあるという前提。勿論、その普遍性を額面通り信じることはできない*4。しかし、教育がひとつの社会システムたりうるのは、「国民の意思」にも政府の意思にも還元されないことにおいてである。ともかく、教育を国民(政府)の手段に還元してしまうことは、どちらかといえば全体主義的な臭いがぷんぷんするということはいえるのだが、それを突き詰めれば、政府を含む社会が教育から受け取る筈の何かを決定的に損ねてしまうということも事実であろう*5

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060921/1158852793

*2:http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20061123/p1

*3:与党というのは政権を与ることによって、或いは政権に与することによって、その非全体性=部分性を逃れるかのようだ。

*4:これは政府が僭称する全体性と同様である。

*5:これは川瀬さん(http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20061122/p1)の議論への接ぎ木になっているか。