「小悪魔」ブーム?


最近、「小悪魔」流行りである。「小悪魔」でネット検索すると三百万件以上もヒットし、「小悪魔な女になって男心をドウタラしよう」という内容のサイトが目白押しである。書店のモテ本コーナーでも、2年ほど前から「小悪魔」という言葉を散見するようになった。知らない人にはまったくどうでもいいことであるが、"モテ業界"をウォッチングしていると、ついにこんなものがモテとして流行るようになったかという感慨を抱く。
http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20061013
だって。「小悪魔」というと、最近だと、ヴィダル・サスーンのCMくらいしか思い浮かばないのだが。そういえば、ケイト・ブッシュのデビュー・アルバムKick Insideの邦題は『天使と小悪魔』だっった。
天使と小悪魔

天使と小悪魔

「小悪魔」とは大野佐紀子さんによれば、「男の心を翻弄する女」、「翻弄してやろうと考えているわけではないが、マイペースで気侭に行動する結果、そうなってしまう女」だという。そのブームの背景については、

思えば「モテる女」は、今一つイメージが漠然としていた。清潔感があって可愛くて明るくて朗らかで気配り上手で、賢いが賢さは表に出さず会話のセンスがあり、適度にセクシーで男には上手に甘え女らしい立ち振る舞いができ‥‥とモテの条件を並べてみても、何のイメージも結ばない。あえて言うとすれば、モーニングショーの女性キャスターみたいな平凡な感じである。

だいたいモテるファッションやヘアと言ったって、人によって似合う似合わないがあるのだから、いつも白やピンク系のノースリーブのワンピース着て鎖骨のあたりで揺れるウェーブにしてればいいというものでもない。そういう「最初のデート」スタイルというのは、万人向けのストライクゾーンなだけに飽きられやすい。「清潔感があって‥‥」以降の女のジェンダーも、それさえ身につければ他の女との差別化を図れるというものでもない。

つまりモテというのは「こうしておけば、大多数の男に嫌われるということはないでしょう」という漠然とした安全策であった。一応どうすれば男ウケする好印象を作れるのかはわかったけど、誰も彼もそれをやり出したらモテも糞もなくなる。清楚なワンピースにセミロングで何を話してもニコニコ対応する女なんてつまらん、というへそ曲がりな男もいる。そこに出てきたのが、「小悪魔」という具体的なイメージである。

と述べられている。「へそ曲がりな男」が増えてきたの?
別のことを考えてみる。私たちは対象を〈支配〉したいという欲望があるという。「対象を〈支配〉したいという欲望」、それは対象を自分の思うとおりにしたいということと言い換えることが可能だ。しかし、もし対象が自分の思うとおりになってしまった場合、奇妙なことが起こるだろう。自分の思うとおりになってしまった現実というのは、実は主観的な妄想と区別し難いのだ。〈支配〉したいという欲望は究極的には現実が客観的に存立しているということを蒸発させてしまう。そのとき蒸発する客観性は対象だけではないだろう。逆にいうと、物事が客観的に存在するということは、思うにまかせないということ、対象の側の思うとおりにならないという抵抗によって裏打ちされるということだ。そんなことは誰もがわかっていることだと思う。ゲームでも受験勉強でも簡単すぎるものは達成感がない。さらにいうと、この抵抗が〈支配〉に限らず、あらゆる〈能動性〉を動機付けるという側面もあると思う*1。大方の男の子は彼女を押し倒そうとして平手打ちされるというほろ苦い思い出を持っている? でもそれが欲望をさらに燃焼させると、XTCの”Grass”
スカイラーキング(紙ジャケット仕様)

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でも歌われている。さらにいうと、能動性それ自体は受動的にしか動機付けられないといえるのだ。
他者にとって他者である限り、万人が「小悪魔」であるといえる。そうでなければ、世界はその客観性を喪失して、主観的妄想の塊と化してしまうだろう。その意味で、「小悪魔」ブームとは何なんだろうか。能動性へのあり得ない信仰の翳り? しかし、殊更に「小悪魔」を装うわけでしょ? とすると、今までは専ら男性の側のものだと思い込まれてきた対象を〈支配〉したいという欲望を、野蛮な男性的〈支配〉欲とは別の、より文明的な仕方で女性も表明するようになってきたということか。ただ、それでも対象を〈支配〉したいという欲望一般の構造的運命を共有しているということは指摘しておかなければならないだろう。
因みに、この問題は、ニーチェデリダ、特に『尖筆とエクリチュールの系列に連なる問題でもある。

*1:究極的には、あらゆる〈能動性〉を基礎付けるのは、〈私たちはいつか死ぬ〉から生起する根本的不安だといえるのだろうが。