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 12月14日、取り敢えず以下の本3冊を買う;


 冨田恭彦『対話・心の哲学 京都より愛をこめて』講談社現代新書
 島泰三安田講堂 1968-1969』中公新書
 森達也『悪役レスラーは笑う−−「卑劣なジャップ」グレート東郷−−』岩波新書


 12月15日、散歩がてらに、近所のブック・オフへ。(消費税込み)105円コーナーを物色して、取り敢えず、


 菊池聡、木下孝司編『不思議現象 子どもの心と教育』北大路書房、1997
 奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学日本評論社、1998
 津野海太郎本とコンピューター』晶文社、1993
 榎本博明『〈私〉の心理学的探求 物語としての自己の視点から』有斐閣、1999



 大貫妙子『シングル・コレクション・アルバム 素直な気持』


をゲット。ミスドでちょっと考えた結果、心理学系の2冊は日本に置き去りにすることにする。津野さんのはミスドでほぼ30分くらいで斜め読みしてしまった。近所には、屡々学術書系の掘り出し物が出る古本屋があるのだが、シャッターは閉まっていた。偶々休みなのか、それとも閉店なのかは知らない。

 帰宅すると、ある論文の原稿締切がオーヴァーしているというメイルが! そのショックのためかどうか知らないが、全身的寒気が急激にひどくなり、おまけに腹の調子もおかしくなる。
 そのような心身的状態において、


 鎌田勇「意味と生活世界」『年報社会学論集』4、1991、pp.93-104


を読み出す。公刊されてから15年にもなろうとする論文を論うのもなんだかなという感じではあるが、まあいいや。まず凄いのは、文章が日本語として崩れているということである。冒頭の「フッサールは末期の著作に於いて」(p.93)。あの、人間の生涯の後半部のことを「末期」と表現するという感覚は私にはない。「後期」でしょう。それから、transcendentとtranscendental、つまり「超越的」と「超越論的」が文中でごっちゃになっていることを論っておこう。何よりも、この論文はシュッツの「自然的態度の構成的現象学」ということが如何に理解されていなかったかということのサンプルとして、特に意味を持っているのかな(cf. pp.95-96)。「自然的態度の構成的現象学」を誤解した上で、その原因を「シュッツがヴェーバー理解社会学から受け継いだ新カント主義」に求めている。曰く、「シュッツはヴェーバー理解社会学を、その内にあってフッサールが厳しく批判していた新カント哲学と対決することなく、現象学の方法と統合しようとしたのである」(p.96)。勿論、このような論いは〈現在〉に対しても跳ね返ってくる。
 ただ、「フッサール現象学は、意味を心理的構成に帰すイギリス観念論、感覚主義的経験論(empiricism)に対し、直接経験に意味を求める経験論(experientialism)と呼ぶことができよう」(p.94)という箇所には感心した。この箇所には註とかリファレンスの指示はないので、exprientialismという言葉は鎌田氏のオリジナルだろうか。それとも広く使われている言葉なのだろうか。

そういえば、桑江さんのブログに、

 「卒論代行サービスの結末。。。」

という記事があった。