『こころとことば』

 日本の自宅に残してある本の山の中で、三浦つとむ『こころとことば』(季節社、1979)が偶々目に留まったので、読み始める。分量も少なく、また平易な文章でもあり、忽ちのうちに読了してしまう。
 三浦つとむは、在野の言語学・認識論(弁証法)研究者で、1989年に亡くなっている*1
 本書は、「はじめに」で、「ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために、使われています」(p.3)と述べられているように、またタイトルにもあるように、人間の心の表出としての言語という立場に立っている。それは時枝誠記の「辞」と「詞」の区別を引き継ぐものである*2


 ことばを大きくわけると二つになります。自分のむこうにあるものごとやありかたをとりあげることばと、そのときに自分の心に生れた気もちを示すことばの、二つです(p.25)。
また、本書の目玉は「もう一人の自分」*3という概念だろう。事実、「もう一人の自分」については、5章に亙って述べられている(第7章〜11章)。「もう一人の自分」は、〈夢の中の自分〉から記述が始められている−−「現実に生きている自分は、眠っていて動かなかったのに、夢のなかの自分は道をあるいていたので、現実に生きて眠っている自分のほかに「もう一人の自分」が夢のなかにいたことになります」(p.34)。さらには、「目をあけて見る夢」(p.35)としての「想像」の「自分」。ちょっと抜き書きをしてみよう;

 つぎの日曜にはハイキングに行こうと、、地図や列車の時刻表を見ながら計画を立てるとすれば、それも「もう一人の自分」の活動です。地図をごらんなさい。地図は土地を高い空中からながめたものとして書いてあるでしょう。地図をつくった人は、現実の自分として、地上をあるいてしらべたのですが、地図を書くときには「もう一人の自分」を高い空中の一点に位置づけて、そこからながめたものとして書いたのです。時刻表をごらんなさい。これには駅の名まえとそこにつく時刻とがならんでいるでしょう。時刻表をつくった人も、現実の自分として、現実の列車の動きをしらべたのですが、時刻表を書くときには「もう一人の自分」になって駅から駅へ瞬間的に位置を移し、それぞれの時刻を書いていったのです。それでこれらを利用する私たちも、これらをつくった人たちと同じように「もう一人の自分」になって、高い空中から道の長さをしらべて「ここまで五キロくらいあるな。」と考えたり、駅から駅へ瞬間的にとび移って、「終点まで一時間二〇分かかるぞ。」と考えたりしています(p.36)。

 現実の私たちは、茶の間のテレビの前でブラウン管をながめています。(……)しかしそのときの「もう一人の自分」にとって、目の前にあるのはブラウン管ではなく、作者の提供している夢の世界です。自分もこの世界のなかに位置づけられているのです。こうして「もう一人の自分」は、魔法つかいのお姫さまサリーちゃんが勉強しているのを同じ教室のなかにいてながめたり、サリーちゃんといっしょに雲の上にある魔法の国へ行ったりします。現実の私たちは日本にいても、「もう一人の自分」はアメリカのニューヨークにいて、警察のデカ長さんの運転するパトカーにいっしょに乗り、強盗犯人のかくれ家へ急行しています。
 野球の中継のときにも、「もう一人の自分」はもう茶の間にはいません。球場のネット裏で、投手の投げるボールをながめたり、ホームランの打球が外野の客席へとびこむのを見とどけたりしています。スロービデオを見るときの「もう一人の自分」は、ボールが打たれて飛んでいくのをスピードを落としてながめることのできる、超能力の持ち主にもなります(p.48)。
 こうした「もう一人の自分」というのは、社会学的自我論、特にミード的なI/Meの区別に対応するものだろう。「もう一人の自分」があってこそ、私たちは自らの身体或いは〈いま−ここ〉を超越することが可能なのであり、他者の立場に立つこと、所謂役割を取得することも可能になる*4。また、

 自分のなかに「もう一人の自分」が分離して、独自の活動ができるのは、現実に生きて生活している自分から、それだけの材料が与えられているからです。眠って夢を見ているときの、夢のなかの「もう一人の自分」にしても、現実の自分が毎日現実の生活で生活経験をかさね、その心が満足したり傷ついたりしたのが材料となって、かたちを変えて夢の世界のありかたや夢のなかの「もう一人の自分」のありかたとしてあらわれてくるのです。生活経験と関係なしに、私たちの生れつきもっているなにかがあらわれてくるわけではありません(p.38)。
という指摘。これなど、シュッツならば、「至高の現実」としての「ワーキングの世界」と表現するところだろう。
 ところで、著者のスタンスには、かなりの違和感を感じるところがある。その一つは、著者の立場が基本的には独我論だということである。勿論、著者が〈他者〉の存在や言語の社会性を無視しているというわけではない。しかし、それは自明なものとして前提にされているだけであって、主題的に問われることはない。それは具体的な「文法」の説明にあらわれている。言語が社会的であるのは、たんにその「文法」が「社会的な約束」としてあるからではない*5。その社会性は、現象としての言語が常に共同の発話者、聞き手或いは読み手を前提にしているというところにこそある。しかし、著者による「文法」の解説は(それはそれで明瞭ではあるのだが)、
「人間が心で思っていることをほかの人間に伝える」ということに終始し、その「ほかの人間」と自分とがどのような関係にあることを言語が前提としているのか、或いは言語が「ほかの人間」とのどのような関係を構成していくのかということは問いの外にある。私見では、特に終助詞などは、たんに「自分の心に生れた気もちを示す」ということ以上に、その発話・言説が差し向けられた他者との関係を考慮しない限り理解できないと思うのだが。
 さらに、これと関係があるかも知れないのだが、また独我論的であるというのと矛盾しているかも知れないのだが、著者には言語によって現実が構成或いは構築されるという視点が乏しいように思えた。著者は「ことばの場合には、耳にきこえたり目にみえたりするありかたを無視して、その基本的なありかたをとりあげます」といい、言語が「概念」に関わることを述べる(p.10)。ここで問題なのは、「耳にきこえたり目にみえたりするありかたを無視して」という部分である。言語の制約を脱した純粋で透明な視覚・聴覚が存在しているかのようだ。しかし、山を山として知覚することが可能なのは、常に既にそこに言語(概念)としての山が介入しているからではないだろうか。著者は、同一のものではない山、例えば石川啄木の「ふるさとの山に向ひて」という短歌で詠まれた「山」とその啄木の歌が好きな著者の友人が「目にやきついて忘れられない」という「少年のときに友だちと遊んだふるさとの山」について語る(p.17)。そこで、それらは「同じ山ではありません」が、「それらは同じ種類に属するものとして扱うことができますから、それを同じことばを使って語っているのです」という。しかし、それは逆なんじゃないだろうか。つまり、同じ言葉を使って語っているから同じ種類に属するものとして扱うことができる。上で、ここでは言語の社会性は自明なものとして前提にされていると述べたが、この社会性にしても、「山」と同様に自明なものとして自然主義に前提とされていると言い換えることが可能だろう。さらに、「過去」や「未来」といった〈時制〉を語っているところでも、時間の流れそれ自体は自明なものとして前提され、時間が言語を介して構成されるという視点はない。
 「もう一人の自分」にしても、「もう一人の自分」が「もう一人」ならざるそもそもの?の「自分」と実際には不可分のものであること、或いはそもそもの?の「自分」だと「自分」で思い込んでいる「自分」さえも、「もう一人の自分」たちに侵入されたり、またその「自分」たちを取り込んだりして存立していることは言うまでもないことだろう。勿論、身体としての私がこの世の一角に空間を占めていることは否定しようがないことではあるが、「もう一人の自分」から全く免れた「自分」というのは、「山」という概念から全く逃れた山と同様に二次的・三次的な抽象にすぎないだろう。
 本書が独我論的或いは自然主義的限界の中に留まっていることは否定できない。それは文学経験についての次のような叙述からも伺われる。著者によれば、文章というのは「その文章を書いた筆者の精神の鏡」(pp.44-45)であり、「芸術の鑑賞」というのは「それをつくり出した人の体験をくりかえすこと」としての「追体験」を「正しく行うよう努力することにほかなりません」(p.45)ということである。ロラン・バルト以降、〈著者〉は死に、共和制に移行した筈なのに、ここでは依然として〈著者〉は健在であり、その専制支配も続行しているという感じなのである。
 ただし、〈民主化〉の兆し・可能性はないわけではない。上で引いた石川啄木の短歌が引用されている章。そこで、「意味」ということについて、「話し手や書き手の体験が音声や文字にむすびつくときに成立した、歴史的な関係として存在する」(p.20)と述べられている。それを引き継いで、「話し手や書き手の体験」が有意味なものとして存立するためには、山であろうが海であろうが、石川啄木を初めとした有名無名の「話し手や書き手」によって何度も何度も再使用されてきた「音声や文字にむすびつく」必要があり、その「音声や文字」は無数の「話し手や書き手の体験」の痕跡がまとわりついているというのは、あまりに武断的だろうか。 
 

*1:http://blogs.dion.ne.jp/liger_one/archives/cat_44065.htmlに「三浦つとむ著作一覧」あり。

*2:時枝の名前は、本書の最後の頁(p.168)になって初めて言及されるのだが。

*3:これも時枝を引き継ぐもの。曰く、「日本では時枝誠記氏が、現実の自分の立場に立つことを「観察的立場」とよび、「もう一人の自分」の立場に立つことを「主体的立場」とよんで、区別して論じましたが、これもほかの学者にはほとんど理解できなかったようです」(p.168)。

*4:pp.50-53も参照のこと。

*5:「文法」については、pp.14-15を参照のこと。三浦は「文法」と「文字ことばと音声ことばの転換の約束」を区別している。