2019年12月31日。
世田谷線*1三軒茶屋駅。
「九州熱中屋」*2。東京都世田谷区太子堂4丁目。
「すずらん通」。太子堂4丁目。
「マックデリバリー」。太子堂4丁目。
太子堂4丁目。
高校時代にやっていても視なかっただろう
小林克也*1という名前をけっこう久しぶりに見た。
茂木健一郎氏*2のツィート;
昔は、小林克也さんの「ベストヒットUSA」みたいな番組があって、若者は案外見ていて、アメリカでどんな楽曲が流行っているのかということを知っていたのだけれども、今はそういう流れが全く入ってこなくなった。かといって国内のヒット曲をみんなが知っているかというとそうでもない。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2020年1月16日
「国内のヒット曲をみんなが知っているかというとそうでもない」というのは、『ベストテン』(の類)がTVから消えてしまったからかも知れない。そういえば、久米宏と黒柳徹子の『ベストテン』というのは『ベストヒットUSA』とは同時並行的だった。土曜の深夜に『CDTV』ってやっているけれど、その視聴率はどのくらいなの?
『ベストヒットUSA』を私のライフ・ヒストリーに重ねると、大学・大学院の時代ということになる。もし高校生の頃にやっていても、多分視なかったんじゃないかな。別に反米的というわけではないけれど、高校生の頃、「アメリカ」のヒット・チャートの動向には殆ど関心がなかったのだ。坪内祐三氏の急死に当たって、氏がボブ・ディランやニール・ヤングなどの北米のフォーク・ロックの大ファンであることを強調したのだけど*3、氏については、私と略同世代なのにどうしてそんなに米国の音楽に詳しいの? という驚きがある。私の周囲には、音楽に或る程度以上関心を持っている人で、米国に目を向けている人はいなかった。勿論、米国の音楽を無視していたわけでなく、キッスもエアロスミスもチープ・トリックも知っていたけれど。みんな注目していたのは英国だった。ミーハーだって、クイーンやロッド・スチュアートだよ。英国を超えて、やっぱりジャーマン・ロックだぜ! と言っていた人もいたけれど。その頃、《ベストヒットUK》をやっていたら、絶対視ていたと思うけれど。米国の音楽にも少しずつ関心が向き始めてくるのは1980年代に入ってから。
*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060420/1145496265 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060421/1145586784 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100819/1282187836 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/13/152224
*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090729/1248869190 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090804/1249405632 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090805/1249492266 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090808/1249714415 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090809/1249835813 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091114/1258133640 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100217/1266382779 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141112/1415767388 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170527/1495852041 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170411/1491920803 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180824/1535078818 https://sumita-.hatenadiary.com/entry/2019/07/05/220116 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/07/15/231023 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/11/01/020659
こんなに若かった!
『朝日新聞』の記事;
軽く驚いたのは、村井さんってこんな若かったんだ! ということ。1990年代の初め、「インターネット」という言葉を知ったのと略同時に「村井純」という名前を知った。あの頃は、みんなそうだったのではないか。遅くても、岩波新書から『インターネット』という本が出る頃までには、何らかのかたちでネットを使う人は誰でもその名前を知っていたと思う。その頃、既に〈第一人者〉であって、自分より10以上は上の人なんじゃないかと勝手に思い続けていた。ところで、言っていることはまさにその通り。(正しい意味における)ハッカーであり続けているわけだ。
「インターネットの父」村井純さん、慶応大で最終講義
1/16(木) 19:40配信朝日新聞デジタル
「日本のインターネットの父」と呼ばれる慶応大環境情報学部教授の村井純さん(64)*1が定年を迎え、16日、最終講義があった。村井さんは「インターネットに国境はない。国や政府が分断したり規制しようとしたりする試みは続くだろうが、若い人たちで守ってほしい」と呼びかけた。
村井さんは1980年代、研究者による独自プロジェクトとして国内の大学間を結ぶ通信網の構築に尽力。米国のインターネットと接続させ、その後のネット社会への道筋を開いた。
村井さんは講義「インターネット」の最終回となったこの日、学生の質問に答える形でその歩みを振り返った。インターネットは「人類が初めて手にした世界共通のデータ・ネットワーク」だとし、国や政府から独立した国境のない形で運営することの大切さを強調。様々な規制とどう向かい合っていくかは、ネット世代の若者たちに託されていると語った。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200116-00000050-asahi-soci