北条時行は、鎌倉幕府最後の得宗北条高時*1の次男である。建武政権の末期に鎌倉幕府の復活を目指して中先代の乱を起こし、一時は足利直義軍を撃破して鎌倉を占領するほどの勢いを見せた。しかし、京都から大軍を率いて攻め上ってきた足利尊氏軍に敗北したことも周知の事実である。
この時行がその後どうなったのかについては、あまり知られていないのではないだろうか。実は時行は、南朝方として足利氏と戦い続けるのである。
建武四年(一三三七)、時行は、吉野で南朝を開いたばかりの後醍醐天皇から朝敵赦免の綸旨を拝領する。その後、北畠顕家傘下の一武将として美濃国青野原の戦いなどを転戦する。文和元年(一三五三)には新田義貞の遺児義宗・義興とともに上野国で蜂起するが、将軍尊氏と戦って翌年武蔵国で捕えられ(武蔵野合戦)、鎌倉龍ノ口で処刑された。このように、観応の擾乱以降まで割と長い期間活動しているのである。
さて、この北条時行の南朝帰参が、反乱を起こしたことを心底から悔い改めたためでもなければ、まして後醍醐天皇の政治理念に共鳴し、真心から忠誠を誓ったわけでもないことは容易に推察されよう。
時行は、鎌倉幕府再興」という最終目的を達成するために、当面の戦略上の手段として南朝と手を組んだに過ぎないのである。南朝は南朝で、室町幕府を打倒するために手駒は少しでも多い方が有利との判断から、時行の本心を承知の上で彼の帰参を認めた。両者の提携には「敵の敵は味方」というマキャヴェリズム全開の利害と打算しかなく、南朝忠臣史観が称揚するような美しいものは何一つ存在しない。
そんな時行が最後まで南朝を裏切らなかったのは、単に一貫して戦況が不利で南朝に対して謀反を起こす機会が訪れなかっただけにすぎない。(後略)(pp.179-181)、
