貞盛系など

野口実*1北条時政』を図書館から借り出しているのだけど、所謂坂東平氏、後の苗字で言うと、千葉、上総、畠山、土肥、和田、三浦、大庭、梶原などはみな高望王の五男、平良文*2の子孫であるのに対して、北条時政*3は、平清盛などの伊勢平氏と同様に、高望王の長男である平国香*4、或いは国香の息子、貞盛*5の子孫なのだった。この違いというのは、時政の後の北条氏と関東の武士たちとの関係を考える上でけっこう重要なのではないかと思ったりした。
さて、北条氏が根拠とした伊豆国北条という場所の重要性について;


北条氏の拠った伊豆北条は狩野川河口から伊豆国府に遡り、さらに内陸に入った地点に位置するが、山がちな伊豆においては最も農業生産力の高い平野部で、南伊豆や東伊豆に至る陸上ルートの交錯するまさに伊豆一国を押さえる上では絶好の地点に位置していた。しかも、その周辺には、北条氏と同様に、京都ないし畿内近国と深い関係にあるさまざまな人たちが集まり、情報の集積という点においてもまさしく「都市的な空間」を構成していたのである。
鎌倉幕府荘園領主知行国主・国守―目代の支配に反発した東国武士団が、その棟梁として源頼朝を擁立し、彼らの階級的利益を守る機関として樹立されたと考えられている。しかし(略)挙兵段階において頼朝を囲繞した人たちを仔細に検討していくと、頼朝の政治を直接動かし、手足となって働いたのは、彼の乳母(比企尼・山内尼ら)の関係者や京都下りの吏僚であったり、平治の乱ののちに浪人となって東国に下向した佐々木父子・加藤兄弟のような畿内近国の武士・悪僧たちであったことが分かる。彼らに共通する特性は、列島規模の人的ネットワーク、言い換えると広い情報網をもつということにあった。北条氏もまさにそのような存在であった。
そしてまた、北条氏が頼朝亡き後の幕府を主導する権力を確立し得たのは、単に頼朝の外戚であったということだけでなく、北条氏の系譜的なステイタスや幕府成立以前からの在地における存在形態に起因していたと見ることができるのではないだろうか。(pp.36-37)