「執権」の起源

野口実『北条時政*1から。
北条時政正治2年(1200年)4月1日に「従五位下遠江守」に叙任されている(p.135)。これには「時政の軍事・経済的な基盤をおおいに強化する意味」があったが(p.136)、それだけではない。


さらに、時政が五位に叙せられたことについて重要なのは、この位階が公卿家(三位以上)に設置される政所の別当に就任するための資格要件であったことである。幕府においても政所は政務機関の中核であって、そこに恒常的地位を占めるには五位(大夫)の位階が求められたのである(杉橋 一九八〇*2)。
一般に武士は貴族と対立的に捉えられ、幕府の機構も公家とは全く別のもののように理解される節があるが、武家の棟梁は公卿であるから、その家政期間は京都の上級貴族のそれを踏襲したものになるのは当然のことで、政治的な身分原則として、その居亭において鎌倉殿と同じ空間には五位以上の「諸大夫」身分の者しか伺候できなかったのである。したがって、鎌倉殿の日常空間を占める寝殿の外郭(中門廊の外側)に設けられた侍所の別当には、和田義盛梶原景時のようなもともと六位クラスの「侍」が就くことができるが、家政機関の中核をなす政所別当には五位以上の位階を有し、貴族社会の故実にも通じた中原(大江)広元のような京下り吏僚がつとめざるを得なかった。(pp.136-137)

建仁三年(一二〇二)九月十日、時政は「鎌倉殿」に擁立した千幡を名越の自邸に迎えた。十月八日に至って、千幡はここで元服し、後鳥羽院から与えられた「実朝」の名を称することとなる。『吾妻鏡』では、千幡(実朝)が政子の邸から名越亭に移動したことを乳母の阿波局が姉の政子に伝えたことにより、実朝は数日後に政子のもとに戻されたと記すが、それは後に時政が実朝を廃して婿の平河朝雅を将軍に擁立しようとしたこととの整合を図るための曲筆とも考えられ、時政にとっては実朝が自邸で元服を遂げたことで、その立場を周知せしめることができればそれで十分だったはずである。実朝が名越亭に入ったその日に時政が多くの御家人に対し「世上危うき故なり」という理由で所領安堵の書状を下していることがそれを如実に物語っていよう。(略)
十月九日には将軍家の「政所始め」の儀が行われ、時政は大江広元とともに別当として着座することとなる。源氏将軍家の姻戚として源氏一門に準ぜられ、五位の位と受領の官を手にし、梶原氏・比企氏を倒して幕府内の対抗勢力を排除し、武蔵国駿河遠江にも地盤を築いて在地領主としても「大名」と呼ばれるに相応しいステイタスを得ることに成功した時政は、ここに晴れて政所別当となることを得たのである。(pp.137-138)

(前略)政所は公卿家の家政機関であり、この段階では実朝は未だ五位に過ぎなかったから、政所が正式なものになるのは承元三年(一二〇九)、実朝が従三位に叙せられて以降のことであった。(略)この時代、院政の敷かれていた朝廷では、複数の院司別当のうち「器量の者」がとくに「執権」と呼ばれるようになる。これと同様に時政も関東将軍家の
「執権別当」の地位に就いたことになろう(杉橋 一九八一*3)。(pp.138-139)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/12/23/144455 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/12/29/104445

*2:杉橋隆夫「執権・連署制の起源――鎌倉執権政治の成立過程・続論」『立命館文学』424・426合併号、1980.

*3:杉橋隆夫「鎌倉執権政治の成立過程――十三人合議制と北条時政の「執権」職就任」(御家人制研究会編『御家人制の研究』吉川弘文館)。