「義」よりも「美」を!

新保祐司「現代の日本を根底から覆す力」『機』(藤原書店)397、pp.4-5、2025


新保氏の著書『美か義か』のタイトルは内村鑑三*1の説教「美と義」に因んだものである。
この説教は新約の『ペテロ前書』(第1章24・25節)と旧約の『ゼカリヤ書』(第9章13節)を踏まえている。


新約聖書のペテロ前書第一章二十四、二十五節は、「人はみな草のごとく、/その光栄はみな草の花の如し、/草は枯れ、花は落つ。/されど朱の御言は永遠に保つなり」である。
(略)内村鑑三は説教の初めにこれを使って、美は究極的にこの「草の花」の運命にあるということを示したかったのであろう。(p.5)

旧約聖書ゼカリヤ書第九章十三節は、「我ユダを張てエフライムを矢となして之につがえんシオンよ我汝の人々を振起してギリシヤの人々を攻めしめ汝をして大丈夫の剣のごとくならしむべし」とある。これは「美と義」の中の「義を追求するシオンの人々は今猶振起て美に耽溺するギリシヤの人々と戦ひつゝある。」という文章と関係するであろう。(ibid.)

内村鑑三は、美と義の問題を思想史や美術史といった文化史の範疇で取り扱ったのではなかった。(略)文化は究極のものではないのだ。日本人は、その精神の在り方が、ほとんど皆「文化人」になってしまっている。この「文化人」の心性が、上から打ち砕かれるのが覚醒である。
本書*2を読んで、多くの日本人が「人はみな草のごとく、/その光栄はみな草の花の如し、/草は枯れ、花は落つ。」との無常に打ちひしがれることなく、「大丈夫」として「振起て」、「美に耽溺する」「人々と戦」う方向に転回することを願う。(後略)。(ibid.)
これを読む限りでは〈反発〉以外に何ものも出てこない。「無常」を全面的に肯定し「 美に耽溺する」人々を断固擁護しなければならない。20世紀の悲劇、例えば大日本帝国の命運にしても、中国の文化大革命の顛末にしても、オウム真理教の光芒にしても、押並べて、「美」を貶め「義」を暴走させた者どもの末路といえるのではないか。