内村鑑三論亜細亜(メモ)

承前*1

福沢諭吉の「脱亜論」に関しては、果たしてそれが福沢本人の筆によるものかどうかという問題がある。では様々な面で福沢とは対立するポジションにあった内村鑑三*2はどうか。ということで、以下、滝沢秀樹「内村鑑三と朝鮮」というテクスト(『韓国へのさまざまな旅』、pp.215-242)*3から少し抜き書き。
第2節「脱亜的発想と結びついた朝鮮社会停滞論」。「少なくとも日露戦争以前においては、《脱亜》思想という限りで、内村の思想には福沢と大きく共通する面が含まれていたと考えられる」(p.218)。


注目すべきことは、「日清戦争の義」を論じたときの内村は、その論拠を、このアジア社会の停滞性という認識に求めていたことである(「アジア的生産様式論」を援用しての中国侵略の合理化という、昭和初年に一部見られた思考パターンの原形!?)。
孔子を世界に供せしシナは今や聖人の道を知らず。文明国がこの不実不信の国民に対するの道はただ一途あるのみ。鉄血の道なり。鉄血をもって正義を求むるの道なり」と、平和主義者=内村鑑三のイメージからは信じ難いような言葉で「日清戦争の義」を主張した内村は、自らの主張の根拠を、「シナ討滅論」と区別して、「東洋の平和はシナを起こすより来たる。朝鮮の独立、日本の進歩、ともにシナ勃興(真正)の結果として来たるべきものなり」と、日本の独立のための朝鮮独立、そのための中国独立という論法においていたのであるが、その方途こそ「アジアの救主」としての日本の手による、中国の「アジア的圧制」の打破であると、考えていたのである。(略)
「吾人は半島政府より闇愚、暴虐、野蛮の徒を駆逐せしがごとく、大陸政府より、常に世界の進歩に抗して、アジア的圧制と醜俗とを永遠にまで維持せんと欲する、蒙昧頑愚の徒を排除せざるべからず。しかり、もし清朝にしてとうてい文明的政治をシナ全土に施すを得ずんば、吾人はこれを倒し、これに代うるに、人道と開明とに基づく新政府をもってするも可なり。吾人が閔族の横行を憎みて、朝鮮国そのものを庇保せしがごとく、清朝の愚者を憎むと同時に、シナのものをあわれまざるべからず。吾人はシナそのものと戦うにあらずして、その吾人の同胞を窘迫する、その文明の光輝を吾人の同胞に供せざる、そのアジア的虐政の下に同胞四億人を永久の幽暗に置かんと欲する、北京政府と戦うなり。
しかり、吾人はアジアの救主として、この戦場に臨む者なり。吾人はすでに半ば朝鮮を救えり。これより満州、シナを救い、南の方、安南、シャム及び、ついにインドの聖地をして欧人の覇絆より脱せしめ、もって初めて吾人の目的は達せしなり。」
実にここには、清朝打倒後のカイライ政権の樹立すら夢想されているのみならず、後年日本が実際にたどった「大東亜共栄圏」への道を更にスケールを大きくした原型があらわれているようにみえるのであるが、そのような主張を支えているのが、日本をアジアから切りはなした上での、アジア(中国・朝鮮)社会停滞論であったことを容易にみてとることができるであろう。(pp.218-220)
『興国史談』(1900)における(「人類歴史の進歩に貢献する」)「歴史的人種」と非「歴史的人種」の区別。非「歴史的人種」は「アイヌ人種」、「台湾の生蕃族」、「南洋の食人人種」、「南アメリカのペルー人」、「北アメリカのメキシコ人」。「シナ人」や「朝鮮人」は「遠からずして歴史的人種となる」可能性がある(p.220)。また「キリスト教と世界歴史」というテクスト(1903年1月)で「列挙」されている「「国民的思想」をもたず、単に「外形の情態」でのみ国民と称し得る国」−−「ポーランド、トルコ、ペルシャ、インド諸邦、エジプト、モロッコチベット、シナ、朝鮮」(p.221)。
註によると、滝沢氏には内村鑑三に関する論攷として、


内村鑑三と国民経済」安藤良雄教授還暦記念論文集『日本資本主義−−展開と論理』東京大学出版会、1978
内村鑑三における国民経済形成の思想」『甲南経済学論集』17-2、1977


あり。

韓国へのさまざまな旅

韓国へのさまざまな旅