何時から学者になったのか

「“良いフェミニスト”とは“死んだフェミニスト”のこと」http://d.hatena.ne.jp/inumash/20150323/p1 *1


学者でなければ「フェミニスト」とはいえないという主張をする人がいるようだ。話の発端は、


「ネトフェミだったら何なの?」http://d.hatena.ne.jp/font-da/20150323/1427073197


という記事に対するKoshianX*2のブクマ・コメント;


フェミニストを名乗る割に財政苦しい日本女性学会の会員になってるようでもそこに論文書いてるようでもない人たちを「ネトフェミ」と呼んでます http://togetter.com/li/688408

http://b.hatena.ne.jp/entry/245327714/comment/KoshianX

さらに、

id:KoshianXさんの「フェミニスト」の定義が意味不明すぎてすごい。その定義だと女性参政権運動家も女子労働の運動家も芸術家もフェミニストにならない。「内村鑑三は教会に行かないからクリスチャンじゃない」みたいな

http://b.hatena.ne.jp/entry/245327714/comment/saebou


まったくその通り。運動家は「左翼活動家」と呼べばいいんですよ。研究をしない人を女性学者を意味する言葉で呼ぶこと自体が誤り。エセ科学と同列です id:saebou/リンクあるんだけどこっちにも http://togetter.com/li/688408

http://b.hatena.ne.jp/entry/245357025/comment/KoshianX

それで、KoshianXの「“フェミニスト=女性学者を意味する言葉”というのはid:aliliputさん*3はてなやってるみたいなのでコールしてみた)の受け売り」であるという。aliliput=liliput曰く、

@hyodoshinji わたしの元々の発言の主旨は、フェミニズムの研究者でない人間をフェミニストと呼ぶのは定義上不適切であるし、また社会的な身分が研究者であってもアカデミックな方法で議論ができない人間はフェミニストとして扱うに値しないというものです。

2014-07-04 13:18:00 via Hootsuite to @hyodoshinji
http://twitter.com/liliput/status/484913993673629696


@hyodoshinji そのご意見には割と同意ですね。フェミニズムは我が国においてその大きな役割を終えておりますし、後は政策決定の時などに政府に協力したり研究成果を出版したりするなどのごく一般的な学問的説明責任を果たすにとどめ、"啓蒙"などもうやめたがいいと思います。

2014-07-04 13:27:24 via Hootsuite to @hyodoshinji
http://twitter.com/liliput/status/484916361832173568

inumash氏曰く、

とりあえずざっと調べてみた限りでは“フェミニスト=女性学者を意味する言葉”というのはただの“俺定義”のようです。id:KoshianXさんはその“俺定義”に基づいてフェミニストを“本物のフェミニスト”と“偽者のフェミニスト”に分類し、偽者の方を『ネトフェミ』という蔑称で呼んでいるわけですね。で、「表に出てきてるのはだいたい偽物=『ネトフェミ』だ」と。

少し前に、公的・歴史的・学術的な定義を無視した“俺定義”で「アイヌ民族は存在しない」とぶち上げて炎上した(正確には“今もしている”)地方議員がいましたが*4、その方の姿が思い浮かびます。

声高に権利を主張することなく体制に従順な姿勢を見せるマイノリティ(例:日系アメリカ人)を“模範的マイノリティ(モデル・マイノリティ)”と呼ぶことがありますが、この概念は社会運動に積極的に参加し現体制への不満を述べるほかのマイノリティ(例:アフリカ系アメリカ人)を抑圧する道具としても使われてきました。上で語られている“本物のフェミニスト”と“偽者のフェミニスト”という分類はまさにその類型です。

フェミニズムは女性が権利を求める運動の中で生まれ、育ち、広まっていきました。学問としてのみ発展していったものではありません。いまなお偏見や抑圧に苦しむ女性が少なくない中でフェミニストに「社会運動を行うな。政治に出てくるな」と言うのは(少なくとも“フェミニストとしては”)「死ね」と言っているのと同じです。

従って、id:KoshianXさんとid:aliliputさんの分類をそのまま受け取るのであれば“良いフェミニスト”とは“死んだフェミニスト”のことになるわけです。

現代においてもこのようなことを臆面もなく言えてしまうのは、お二人の主張に反して“まだまだ啓蒙が必要な証拠”なのではないかと思う次第です。

最近の事例で言えば、同性愛者差別は事件はないのだから「同性パートナーシップ条例」は要らないと主張する赤池誠章を思い出したりもする*5
フェミニズムについて補足的にいえば、(これは正確な実証が要請されているのではあるけど)1960年代以前には「フェミニズム」という言葉は(少なくとも現在のような意味では)なかったように思える。勿論〈婦人運動〉*6というようなものはあったけれど。というか、、所謂左翼的な環境の中では、婦人運動にせよ何にせよ社会運動というのは、髭のユダヤ系独逸人や禿の露西亜人に信者になって〈教団=党〉の統制に服従することによって、その正当性を獲得できたということがあったわけだ。1960年代後半の知的・政治的地殻変動によって、〈教団=党〉から独立した社会運動が簇生してきた。フェミニズムもそのうちのひとつだといえる*7。だから、ハードコアな左翼の中にはそのようなフェミニズムなんか認めないぞという人もいまだにいるわけだ*8。敷衍すれば、婦人運動とかは社会主義運動(共産主義運動)に包摂された仕方で、その枠組の内部においてのみ存在すべきであって、社会主義共産主義)を無視した仕方で〈主義〉が存在するのはけしからんということになるのだろう。左翼の多くは、少なくとも表面的にはこういう頑固爺ではなくて、もっと物わかりがよくなってはいる。しかし、それがフェミニズムとの真摯な対話=対決を経たものなのかどうかは限りなくあやしいのだ。
学問におけるフェミニズムだが、それはオリエンタリズム批判とパラレルな現象であると考えることができるだろう。鍵言葉は脱中心化(decentering)。西洋中心主義的な視座が脱中心化されるのとパラレルに男性中心主義的な視座が脱中心化される。学問もひとつの社会システムであり文化の一部であるということはいうまでもない。また、少なくとも文系の学問の場合、その存立基盤は日常経験の、精緻化・形式化を伴う、観察対象への変容にある。フェミニズムが社会生活における男性中心主義を批判・脱中心化する運動だとすれば、その批判・脱中心化の矛先が精緻化・形式化された社会生活の観察たる学問へと向かうのは理の当然といえるかも知れない。だから、学問におけるフェミニズムフェミニズムの拡張ではあっても、それを独占するものではないといえるだろう。
社会運動か学問かといえば、エコロジー。そもそもは生物学の一分野を指す言葉だったが(生態学)、何時の間にか環境保護思想(運動)、環境保護を意識したライフ・スタイルを意味するようになり、さらに「エコ」と短くなって、世間に拡散してしまった。この転換は何時頃起こったのか。私の記憶だと、1970年代後半には既にそうだったように思える。(仏蘭西の本だけど)ドミニク・シモネ『エコロジー』で論じられているのは既に環境保護思想(運動)としての「エコロジー」である。1972年に柳田為正によって訳出されたシアーズの『エコロジー入門』は生物学としての「エコロジー」入門書であるけど、そこに動態的定常状態というエコロジカルな〈ユートピア〉が提示されていたということは憶えている。
エコロジー―人間の回復をめざして

エコロジー―人間の回復をめざして