飯島洋一*1「「反社会性」と「社会性」境目はどこに」『毎日新聞』2023年1月23日
菅章『ネオ・ダダの逆説』という本の書評。
「反芸術」を標榜する「ネオ・ダダ」は1960年に結成された――
(前略)大分の前衛美術サークル〈新世紀群〉の吉村益信、昨年末に亡くなった磯﨑新、赤瀬川原平、風倉匠に、荒川修作、篠原有司男らが参加し、工藤哲巳などが間接的に加わった。
拠点は東京・新宿百人町の吉村のアトリエ「新宿ホワイトハウス」。磯崎が設計、名称はアメリカの大統領官邸に由来する。〈ネオ・ダダ〉は「街頭での奇矯なアクション(パフォーマンス)や作品の体を成さないガラクタオブジェの展示」をした。「反芸術」は工藤の作品に美術評論家の東野芳明が「ガラクタの反芸術」と名付けたことによる。30年代に生まれた彼らは、敗戦と焼け跡を体験し、戦後も米国との関係を含め国家に複雑な感情を抱いた。ここに〈ネオ・ダダ〉の「逆説」の要因がある。
狭義の活動期間は60年3月から「『ホワイトハウス』が開放停止」となる10月まで、広義では「吉村が渡米する直前の62年8月に磯﨑の自宅」での壮行会までだ。解散以降、荒川らはニューヨークに渡り、赤瀬川は中西夏之や高松次郎と63年に〈ハイレッド・センター〉を結成、街頭パフォーマンスなどを繰り広げた。
〈ネオ・ダダ〉の作風は多様であり、一つに括るのは難しい。だが、あえて言えば、そこには自らの肉体を駆使し、時としてその肉体を痛めつけることで、破壊の衝動を訴える点が見られた。吉村は「ネオ・ダダ展」のチラシを「ミイラ男のように全身に巻きつけて」銀座を練り歩き、「血が出るまでの『歯磨き』」のパフォーマンスを行使し、風倉は「海草とビニールで『す巻き』にされロープで海中から引き上げられ」、「胸に焼きゴテをする」「過激なパフォーマンス」を行った。
60年代は国家と若者が闘争した時代である。〈ネオ・ダダ〉も「芸術活動そのものと軌を一にした行動」と考え、「吉村。赤瀬川、風倉らは、56年の砂川闘争や60年安保闘争のデモなど」に参加し、磯﨑、篠原、荒川も6月15日の国会議事堂周辺のデモにいた。
だが、赤瀬川の「千円札裁判」のように、「反芸術」も国家制度と真正面からぶつかれば、その限界を思い知らされる。赤瀬川は「片面一色刷りで、『模型千円札』を印刷し、知人に現金書留封筒で送った」。彼は65年に通貨及証券取締法違反容疑者として起訴され、70年に最高裁で「刑が確定」する。
赤瀬川らは「芸術であるから犯罪ではない」と主張するが、検察側は「たとえ芸術であったとしても犯罪である」とし、「一連の『反芸術』は、有罪」よなる。「反芸術」は国家制度により「『芸術』として認定」され、「毒を抜かれた」。
同じ70年には国家イベント大阪万博が開催され、磯﨑や吉村らが参加して、「反芸術」は高度な技術に関わり、「大阪万博は60年代の前衛たちを」「一挙に消費システム」に組み込んだ。