「ディストピア小説」としての

常見陽平*1「なつかしい一冊 ミヒャエル・エンデ『モモ』」『毎日新聞』2023年1月21日


ミヒャエル・エンデの『モモ』*2


(前略)実はディストピア小説だ。プロレタリア文学だとも言える。労働と余暇、お金と時間、さらには人間関係のあり方が問われる。欺瞞に満ちた労働社会、消費社会に警鐘を乱打する本だ。
円形劇場の廃墟に住み着いた、人の話を深く聞き勇気、希望を与える力のあるモモと、「時間どろぼう」の灰色の男たち。人々は時間を奪われ、忙しくなり、人間関係もギスギスしていく……。
読んだ瞬間、働くことに絶望し、ナイフを握りしめた。10代の私は現代社会の縮図であると直感した。青春が美しいなんて嘘っぱちだ。何かと競わされ、時間におわれ、搾取される。上京し、当時の地元札幌にはなかった牛丼店に初めて入った瞬間、『モモ』と一緒だと気づいた。今も、お金と時間の若者ばなれが進んでいる。
仕事の本質とはなにかも問いなおされる。単に儲かるだけでいいのか。提供価値は何か。効率を重視して質の低いものを提供していないか。
もっとも、「社畜」にとってはモヤモヤする本だろう。我々は骨の髄までグローバル資本主義新自由主義に毒され、生産性向上に邁進するのが当然だと思い込まされ、自己責任論が跋扈する。なかなか競争から降りられない。プラットフォーム上で踊らされ、資本家に生き血を吸われる。働いた時点で負けじゃないか。『モモ』は所詮、ファンタジーであり、牧歌的すぎるのではないかと。
ただ、モモの持つ能力、人の話を聞き元気にする力、おかしいことをおかしいと感じる素の感覚に、私は快哉を叫ぶ。人は人を救うことができる。人間賛歌、勇気の賛歌だ。百年に一度の変化が毎年起こり、生き方、働き方が問い直される世界史的激動の今こそ手にとりたい。人間らしく生きさせろ。生き残るには今、奴から逃げ出せ。