中島隆博『日本の近代思想を読みなおす1 哲学』*1から。
和辻哲郎の『孔子』*2を巡って。
(前略)この本は、武内義雄が校訂し訳註を付した『論語』(岩波文庫、一九三三年)を下敷きにしている。それは、近代日本のフィロロジーのひとつの成果である。それを利用しながら、和辻は『論語』のより古い層に分け入り、「孔子が死や魂の問題を取り上げなかった」(『孔子』、『和辻哲郎全集』第六巻、三四〇頁)ことを強調し、他の「人類の教師」(釈迦、ソクラテス、イエス)とは異なり、「人倫の道に絶対的な意義を認めたことが孔子の教説の最も著しい特徴であろう」(同、三四四頁)という結論を導く。これが(略)服部宇之吉の孔子教と同様の議論であり、近代日本の「国民道徳」に組み込まれた儒教を反復していることは明らかであろう。
ただ、ここで考えたいのは、なぜそのような孔子像や『論語』解釈を、和辻が提出しえたかということである。この本の第一章「人類の教師」の冒頭で和辻は「最も特殊的なるもの最も普遍的な意義価値を有する」(同、二六四頁)として、「人類の教師」を特定の文化潮流を代表しながらも普遍性を獲得したものだと言う。ただし、こうした普遍性の獲得は容易なものではなく、「教師たちの人格と思想とが、時に試練に堪え、幾世代もを通じて働き続けたこと」(同、二六七頁)と、「これらの偉大な教師を生んだ文化」が「その偉大な教師を生み出すとともにその絶頂に達してひとまず完結してしまった」(同上)ことが必要である。したがって、孔子について言えば、先秦の文化が一度完結した上で、後の漢の文化や唐宋の文化を教化したその中心にいたことになる。
(略)「明は想像力の空疎っを特徴とすると言うべきであろう。この傾向は清朝を通じて現代に及んでいる」(同、二七二頁)。ここでの明や清そして現代中国への見方は当時のものを反映したものだ。『風土』*3の「シナは復活しなくてはならぬ。漢や唐におけるがごとき文化の偉大さを回復しなくてはならぬ。世界の文化の新しい進展にとってはシナの文化復興は必要である」(『風土』、『和辻哲郎全集』第八巻、一三四頁)という記述とあわせて考えるならば、漢や唐に匹敵しない明、清、減殺中国ではなく、現代日本において、孔子はその文化を教化しなけれならない、ということになる。そのために必要な中国の偉大な文化のエッセンスは、すでに日本文化のなかに埋め込まれているのである。(pp.141-143)
中国文化をよりよく代表する日本文化という設定は、和辻の倫理学においても顕著である。「西田幾多郎先生にささぐ」と題された『人間の学としての倫理学』(一九三四年)*4は、最初に「倫理」「人間」そして「世間」といった言葉についてからの探究から始まる。たとえは、「倫理」については、「倫というシナ語は元来「なかま」を意味する。この意味は精力絶倫というごとき用法において今なお生きている」( 『人間の学としての倫理学』、『和辻哲郎全集』第九巻、八頁)とある。志野好伸「和辻哲郎の「倫理」とその周辺」(二〇一九年)が指摘するように、ここで「和辻は日本民族の言語として、「倫理」という中国由来の言葉を分析する」のであり、中国語そのものに向かっているわけではない。たとえば(略)「精力絶倫」は中国の文献には見当たらない*5。そのすぐ後に、和辻は『礼記』を引用して、「礼記に人を模倣することは必ずその倫(なかま)においてす」という句があると述べているが(人間の学としての倫理学』、『和辻哲郎全集』第九巻、八頁)、やはり志野によると、これは「『礼記』曲礼下の「儗人必於其倫」を言い換えた語句である。鄭玄の註では、「儗、猶比也。倫、猶類也」とあり、それに従えば、この句は「人を比べる場合は、その人の属する回想が同じ人同士で行う」という意味である」。つまり、「鄭註に言う「比」としての「儗」を「模倣」と言い換えるのは不適切である」ということになる。
また、「理」については、和辻は、「「倫」がすでに持つところの道の意義を「理」によって強調するのみである」( 『人間の学としての倫理学』、『和辻哲郎全集』第九巻、十二頁)としてあっさり言及するにとどまっている。中国語の文脈で「理」がどれだけ複雑な含意を有しているかを考えると、「倫理」という概念の歴史を辿る点では不十分な言及である。結局のところ、和辻はあくまでも日本語として、中国由来の言葉を分析しているのであって、和辻のなかに齟齬があるわけではない。(pp.143-144)
同様のことが「人間」についても当てはまる。中国語の文脈では「人間」は「世間」であって、人々が暮らす世界のことである。ちなみに、「世間」はサンスクリット語のローカ・ダートゥの訳語でもあって、「世界」というもうひとつの訳語と同じ意味である。ところが、和辻は、日本語の「人(ひと)」という言葉に、「自、他、世人等の意味を含蓄しつつ、すでに世間という意味をさえも示唆している」(同、一六頁)と述べる。そして、「間」は、そうした「人(ひと)」の「特殊な含蓄」を明らかにするものであって、「人が自であり他であるのはすでに人の間の関係にもとづいているということである」(同上)と述べるのだ。(p.144)
*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/06/28/091419 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/04/191242
*2:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091201/1259695353
*3:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20050707 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180410/1523335349
*4:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090224/1235449886 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090319/1237480149
*5:真的!