恥を巡って少し

さだまさと*1「恥の意識がなくなっても特に終わらない」http://d.hatena.ne.jp/sadamasato/20090218/1234933778


曰く、「"「人に迷惑をかけるような事は恥ずかしい事をしない」と言う意識というか道徳規範"は、真の意味での倫理的基盤にはなりえない」。
さて、大村英昭氏(「ネットワーク社会と「文化疲労」in 『文明としてのネットワーク』*2)は、「恥の文化」は「罪の文化」よりも人間にとってより根源的且つ普遍的であるという(pp.200-201)。それは、人間が他者に見られている、他者に晒されている存在であること、さらにはその見られていることを意識する存在であることに関わっている*3。曰く、「見られる意識の深化によって、ひとは、(動物にはない)羞恥心を持つようになり、故に、かの「罪の文化」よりはるかに普遍的な「恥の文化」をも発展させることになったのである」(p.200)。また、「「罪の文化」が、内面(実は、特定の中身だけ)を重視する、いわばイデオロギー時代の特産物なら、「恥の文化」は、外見にこだわる普遍人間的な態度そのもののことだといって過言ではない」(p.201)。ここでは、「恥」というのが他者に対して自らを露出させている(さらにはそれを意識する)という人間存在の在り方に由来しているということを押さえておく。

文明としてのネットワーク

文明としてのネットワーク

さて、「人に対して恥ずかしいようなことをしてはいけません」という場合の「人」には「実体」がなく、「ハイデガー的に言えば、誰でもなく誰でもありうるような「世間」というヤツ」にすぎないという。従って、それは「倫理の基盤に人の匿名的な集合としての世間を置いてしま」うことになると。
さだ氏の論の問題は、小田亮氏(レヴィ=ストロース)がいうところの「真正性の水準(niveaux d’authenticité)」*4を無視しているところに先ずはあるといっていいだろう。つまり、具体的な他者を飛び越えて、いきなり匿名的な「世間」*5が持ち出されていることにある。個体発生的にも、羞恥心は、「世間」を知る以前に、人見知りとともに、つまり他者を意識し始めるとともに発生する。また、私たちが「恥」を感じるのは先ず特定の具体的な他者*6に対してなのではないだろうか。「世間」に対する以前に。
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』を持ち出すまでもなく、倫理は人間(between people)ということを抜きには存立しない。とすれば、「恥」は倫理の「基盤」かどうかはともかく端緒のひとつであることはたしかなのだ。「人間」における倫理の生成・存立については、例えば大庭健『善と悪』とかを読み直す必要があるのだが。
善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

*1:さだまさしじゃなくてよかった?

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080817/1218939934

*3:大村氏は山崎正和『芸術・変身・遊戯』を参照している。

*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070508/1178602180 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070807/1186490802 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081209/1228839200

*5:「世間」の多義性も要検討なのであるが。

*6:勿論、他者の一般定立(general thesis of the Other)という事態は経ているわけだが。