いろいろ覚え書き

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20091128/1259409446


色々と興味深かったけれど、徳川夢声が「ちょっと泉谷しげるに似てる」というのに反応。というか、先日観た木村祐一監督の『ニセ札』で、泉谷しげるが村の住職を演じていたので。

ニセ札 [DVD]

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恐縮ですが、「山本嘉二郎」は「二」ではなく「次」で、「山本嘉次郎」。また、「滝川修」(「劇団民藝宇野重吉とともに結成した」俳優)は「滝沢修*1


http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/fd0df30d39bdaff268bd8c30cc97f86e


宮城県曹洞宗の寺の住職をされている方のblog。
ここで、岩波書店のPR雑誌『図書』の10月号に中島隆博氏の「儒教と祈り」という文章が掲載されたことを知る。紹介によれば、中島氏のテクストの内容は、「儒教*2は「宗教」か「非宗教」かという問題。さらに、「儒教」に宗教性を認めるとしても、その宗教性は近代的な、基督教を標準とした〈内面的な信〉としての宗教性と同じものなのかどうかという問題。そして、「宗教という近代的概念を、儒教を通じて批判的に読み直すこと」を提起しているという。紹介によれば、中島氏は和辻哲郎孔子』における『論語』「述而」の解釈に対する批判を展開しているらしいのだが、それは(より一般的に言えば)神話解釈でよく使われる〈加上説〉に対する批判ということになる。因みに、この「述而」篇は有名な「子不語怪力乱神」(”The Master never talked of prodigies, feats of strength, disorders or spirits.)という文を含む。

孔子 (岩波文庫)

孔子 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

Analects (Wordsworth Classics)

Analects (Wordsworth Classics)

現在私たちが〈宗教〉を語るとき、仮令無宗教な人や不信心者であっても、その宗教概念自体が近代的、基督教的(もっと狭く言えば、プロテスタント的)なバイアスを含んでいる*3。まあ、例えば宗教学という学問それ自体、そもそも近代のプロテスタント的なトポスで生まれたものだ。儒家に宗教的な側面があることは否定できない。儒家の中心的な儀礼的実践の一つは葬礼、死者儀礼であるからだ。儒家のそのような呪術的−儀礼的側面・起源を強調した論としては、白川静先生*4の『孔子伝』や加地伸行(敬称はつけたくない)の『儒教とは何か』があるだろう。また、小島毅靖国史観』*5も。ただ、儒家を〈宗教〉だとするのには違和感を持つということもある。儒家ではなく儒教といってしまうと、何だか基督教や仏教と同列に扱われてしまいそうな感じだ*6儒家は所謂〈宗教〉とは別の次元のものとして捉えられて、事実、徐光啓*7のようなカトリック儒者もいれば、ユダヤ教徒儒者*8ムスリム儒者も輩出されてきた。
孔子伝 (中公文庫)

孔子伝 (中公文庫)

儒教とは何か (中公新書)

儒教とは何か (中公新書)

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)


桜井哲夫「今村「労働論」の今日的意味」『東京経大学会誌』259、pp.167-176(http://www.tku.ac.jp/~koho/kiyou/contents/economics/259/167_sakurai.pdf


今村仁司*9の「労働論」のまとめ。今村労働論の主要な著作として、『労働のオントロギー』、『仕事』、『近代の労働観』が挙げられているが、雑誌論文とかを除けば、本としては『近代の労働観』しか読んでいないということを、恥を忍んで、書いておかなければならない。さて、『近代の労働観』において、「労働」への「動機」としての「承認欲望」は「虚栄心」であるとされている。しかし、「虚栄心」に還元していいものなのか。労働は多くの場合、(少なくとも大局的には)クライアントや顧客との関係で行われるものであろう。また、アレント(『人間の条件』)がいうように、唯一無二の存在としての〈私〉は複数性においてしかありえない。或いは、労働もパフォーマンスであるとしたら、オーディエンス抜きのパフォーマンスというのもありえない*10。ところで、桜井氏がアンリ・ドゥ・マンを論じたという処女作の『知識人の運命』は読んでいなくてすみませんなのだが、桜井氏自身が挙げている『社会主義の終焉』のほかに、NHKブックスから出ている『「近代」の意味』でも、20世紀における「計画」の思想の一環として論じられていたように思う。

近代の労働観 (岩波新書)

近代の労働観 (岩波新書)

The Human Condition

The Human Condition

社会主義の終焉―マルクス主義と現代 (講談社学術文庫)

社会主義の終焉―マルクス主義と現代 (講談社学術文庫)


http://thought.air-nifty.com/thought/2009/11/post-af32.html


石田雅樹氏の『公共性への冒険:ハンナ・アーレントと《祝祭》の政治学』(勁草書房)。これは日本滞在中に買い損ねたことになり、返す返すも残念!
石田氏ご自身が


『人間の条件』などで論じられる「公的領域」が古代ギリシャ・ポリスを範にしたものであることはよく知られています。ですがその「ポリス≒公共性」を論じることにどのような意味があるのでしょうか? 例えば Seyla Benhabibなどは(おそらくハーバーマスの影響から)、この「ポリス≒公共性」を現代的文脈で論じることへの疑問から、『ラーエル・ファルンハーゲン』などに見られる「サロン≒公共性」モデルのほうを重視し、あるいは 「闘技(アゴーン)」agon よりも「物語」narrative の次元をアーレントの「政治」を論じる上で重視しました。しかしそのように「ハーバーマス化されたアーレント」とでもいうべきもので、見失われたものがあるのではないのでしょうか。
と書かれていることは、私もアレントの「ハーバーマス化」に対しては違和感を持っているので、共感する。
ここで名前の挙がっているSeyla Benhabibのテクストは、例えば「パーリアと彼女の影」(in 『ハンナ・アーレントフェミニズム』)、またThe Reluctant Modernism of Hannah Arendtとか。
ハンナ・アーレントとフェミニズム―フェミニストはアーレントをどう理解したか

ハンナ・アーレントとフェミニズム―フェミニストはアーレントをどう理解したか

The Reluctant Modernism of Hannah Arendt (Modernity and Political Thought)

The Reluctant Modernism of Hannah Arendt (Modernity and Political Thought)