勉強すべきことは沢山ある(アレント、アリストテレスなど)

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090308/1236477812


アレントの“The Crisis in Culture”における「フロネーシス」についての議論。また、『カント政治哲学講義』の編者ロナルド・ベイナーの解説「ハンナ・アーレントの判断作用」を引きつつ、「彼女はカントをアリストテレス的に読みかえたのだ、と思われる」。また、「ペリクレスが称讃されるのは、自分一個人の利害や功名心を離れて政治を指導したと伝えられることによるのであって、アーレントの言う「没利害性」とは、アリストテレス的に言えば「自分を含む全体にとって最善を目ざす」とほぼ同義であろう」。アレントのいう「偏らないこと(impartiality)」については、同じ『過去と未来の間』に収録されている「歴史の概念(The Concept of History)」を参照されることをお奨めする。多分、それは世界か魂(自己)かという問題と関わっている。広坂さんが引用した“The Crisis in Culture”のパッセージの(原書では)次の頁に、カント的な「趣味判断」に関連して、


The activity of taste decides how this world, independent of its utility and our vital interest in it, is to look and sound, what men will see and what they will hear in it. Taste judges the world in its appearance and in its worldliness; its interest in the world is purely “disinterested,” and that means that neither the life interests of the individual nor the moral interests of the self are involved here. For judgment of taste, the world is the primary thing, not man, neither man’s life nor his self.(p.219)
と述べられている。
Between Past and Future (Penguin Classics)

Between Past and Future (Penguin Classics)

過去と未来の間――政治思想への8試論

過去と未来の間――政治思想への8試論

カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)

カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)

さて、

アリストテレスにとって倫理学政治学は一体のものであるが、カントにとってはそうではない(「相互に緊張関係にある」)。これは和辻哲郎も指摘していたことである。

アーレントのように、カントにアリストテレス的な知慮、ポリスにおける市民の徳を読み込むには、道徳と政治の関係についての、カントとアリストテレスの見解の差異を無視しなければならない。

和辻もまた『人間の学としての倫理学』で「カントの道徳哲学がその最も深い内容において我々の意味の「人間学」となっていることを主張」し、カント倫理学アリストテレス的契機を読み込もうとしていた。和辻は自らの見解に近い側面を「深い」と言い、政治学(国家学)に包摂しきれない側面を「表面に現れた限りにおいては「主観的道徳意識の学」と見られ得る」とするが、「深い」に対比してつかわれる「表面」という言葉は、価値の高下を含意している。

はたしてどちらが深いか、表面的かということは、容易に決めがたいように思われる。

和辻哲郎が関わってくるか。勉強すべきことは沢山ありすぎる。ところで、アレントは現れ(appearance)の思想家、或る意味で「深い」ことを拒絶した思想家であるということは申し上げておかなければならない。また、ここでも上で挙げた世界か魂かという問題が関わってくるように思える。


http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090313/1236914741


ハイデガーアリストテレス講義を引いて、(ハイデガーがいう)


「「いまだない」と「すでに」のそれぞれを、自らの一面を特定の仕方で顕在化させたものとして併せ持つようなひとつの根源的な所与性」というのはベルクソンなら「現在」あるいは具体的な持続と言ったものであるようだし、そうしてみると、思慮とは「生活の注意」(生への注意)のように見えてくる。こんなことを言うと、深遠なハイデガーおフランス思想と比較するなとハイデゲリアンに叱られるかも知れないが、軽薄なベルクソニアンとしてはそう感じた。
そういえば、ハンナおばさんの論集もBetween Past and Future。さて、ハイデガーの師匠であるフッサールが例えば「内的時間意識」を考えたときにはベルクソンを意識しなかった筈はないのだろうと思います。また、アルフレート・シュッツは先ずベルクソンにはまって、その後フッサールに触れたので、「生への注意」を「志向性」に重ね合わせているような感じもいたします(例えば、「多元的現実について」)。
内的時間意識の現象学

内的時間意識の現象学

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)