承前*1
「物語の力」http://d.hatena.ne.jp/nessko/20110730/p1
村上春樹のオウム真理教事件を巡る文章をちゃんと読んでみる必要があるなと先ず思った。麻原彰晃が発する「物語の力」によってオウムのテロは惹き起こされたという視点*2
さて、
Anders Behring Breivikの「長い犯行準備期間中、彼を支え続けたのは、自らが編んだ物語だったのではないだろうか」。それはあると思う。最近ではウェブ日記やらblogやらの登場で〈日記(diary)〉の定義というのは霞んでしまった感があるけれど、そもそも(少なくとも西洋近世以降の)〈日記〉というのはほかでもない自分自身を読者として想定したエクリチュールであり、それは自分に対して自分を正当化したり、自分に対して反省を迫ったり*3、自分で自分を鼓舞したりという機能があったわけだ。ところで、私はよく陰謀理論とかについて言及しているのだが、それはけっして科学的真理やら政治的正しさやらといった高みから陰謀理論を断罪したいがためではないのだ。やはり私の中にも陰謀理論が「触れるばかばかしい部分があるから」、換言すれば惹き付けられるところがあるからである。尤も、挽き付けられつつもはまらないのは、(私の場合)諸々の人文系の学問のおかげなのだけど。
物語の力、というと、ノルウェーのテロで犯行を認めたアンネシュ・ブレイビク容疑者は、何年も前から準備を始め、テロの直前までずっとその過程を日記のように書き続けていたことがわかっている。単独犯と見られているブレイビクだが、長い犯行準備期間中、彼を支え続けたのは、自らが編んだ物語だったのではないだろうか。報道されたものを読む限りは、ブレイビクを支えた物語は、日本でいえば『正論』や『ムー』、またはネトウヨブログに書かれているのと似た、白人向けの極右ロマンでしかない。キッチュでばかばかしい代物だが、なぜばかばかしいとわかるのかというと、読む私の中にもそういうロマンが触れるばかばかしい部分があるからで、まあ気持ちはわからないでもないでもなくもないけれども、あんなものでよくあそこまで根気が出せるなあ、と思ってしまう。
話が散らかってきているが、日本も自国のネトウヨ言説や、オウムの信者のその後をもっと気にかけてもいいのではないか、まだまだ調べることはあるんじゃないか、そんな気分で図書館の雑誌コーナーに行って、週刊朝日があったので手にとってざっと見ると、2011年7月29日号に「今静かにブッダがブーム!!」という記事が出ていて、流し読みしただけだが、オウム事件のとき痛手を負った筈の島田裕巳がコメントを寄せていて、既成の仏教に飽き足らない人が増えているんですよね、と明るく語っていて、なんだか白けた。「既成の仏教に飽き足らない」オウムに入信した若者は同様の発言をしていたし、人間・ブッダに魅せられる、というのも、ブッダをメシアとして見たがっている人が増えているということなのだろうか、麻原も自分をキリストになぞらえたりしてたよな、と、文面の目に入る端々からオウムを連想してしまった私。
今日本で仏教がブームなんだ? まあ東日本大震災や福島原発事故で〈諸行無常〉を実感してしまった人も少なくないのだろう。そういう中で、仏法に安心立命を求めるというのも悪いことではないとは思う。ところで、島田裕巳氏の「既成の仏教に飽き足らない人が増えているんですよね」というコメント。聞覚えがある。オウム真理教が勢力を伸ばした背景として批判的に語っていたような気がする*4。所謂オウム事件の直後だけでなく、21世紀に入って刊行された『日本人の神はどこにいるのか』でもそのような言及は(ちょろっとではあるが)あったのではないかと思う。この記憶は些か不正確なのだが、同様な論点は島田さんとの直接の会話でも確認はしている。これは〈近代仏教学〉それ自体の存立にも関わっている。(伝統的な宗学とは区別された)近代的な学問としての仏教学においては〈原始仏教(根本仏教)〉という理想形態が設定され、それとの対比によって、日本人が普通に信じたり・実践したりしている仏教(所謂「既成の仏教」)は非本来的な仏教とされてしまったわけだ*5。「既成の仏教」が〈漢字の仏教〉だとすると、オウム真理教はそれを否定して〈片仮名の仏教〉をウリにしていた。法名じゃなくて「ホーリー・ネーム」というのは笑ってしまうが、弥勒菩薩ではなくてマイトレーヤというのはどうだろうか。ところで、〈近代仏教学〉とオウムとの関係を直感したのは、〈サリン事件〉後にTVカメラが〈サティアン〉に入ったときだった。或る高齢の女性信者がカメラとマイクを向けられて、中村元の仏教講座にずっと通っていたと答えていたのだった。勿論、インタヴューアはそれ以上突っ込むことはなかったけれど。
でも。島田裕巳は、さすがにオウムのことをまったく忘れたわけではないだろうに。阪神大震災の後、オウムがサリンテロを起こした。そしていま再び、大震災の後にネオ仏教ブームって、なんかぞわぞわしないのだろうか。
- 作者: 島田裕巳
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2002/06
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*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110723/1311433720 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110724/1311507595 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110726/1311611934 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110727/1311790165 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110729/1311959050 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110730/1312003630 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110731/1312120441
*2:勿論、特定の「物語」に深くコミットしなくても、たんなる思考の欠如によって、〈悪〉に加担してしまうということはありうる。アレントの『イェルサレムのアイヒマン』を見よ。http://d.hatena.ne.jp/essa/20110718/p1に対する批判(http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110731/1312133286)においてもこのことを指摘すべきではあった。 Eichmann in Jerusalem (Penguin Classics)
*3:ここでいう「反省」は中国語の用法に近い。See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110716/1310809404
*4:因みに、オウム真理教はその最盛期でも、信者数が創価学会などの〈大手〉の数百分の一の中小教団にすぎなかった。また、島田さんの既成宗教に対する感情やスタンスにはちょっと複雑なところがあるということは言い添えなければならない。
*5:これをグローバルな文脈で考えるためには、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101222/1293036848で引用した磯前順一「近世「仏法」から近代「仏教」へ」(『春秋』522、pp.1-4、2010)も参照されたい。