「伝記」を巡って

スティーヴン・ミルハウザーエドウィン・マルハウス』(岸本佐知子訳)*1から。


伝記を攻撃する人々によれば、伝記の致命的な欠点は、しょせんはフィクションの枠を出ることができないという点である。どんな日付も、どんな出来事も、どんなに些細な一言も意図されたプロットの一部であり、それらが徐々に、そして巧妙に、あらかじめ予定されたクライマックス――すなわち、主人公の輝かしい偉業――へ向かっていくのである、と。主人公の人生の他のあらゆる部分は、必然的にその中心的イメージに結びつけられ、ちょうど暖炉の火の魔法が見慣れた部屋を魅力的に見せるように、中心的イメージが人生のディテールにありもしない意味を与え、輝かせる。さらに言うなら、その意味は、未来の伝記という名の檻の外でのびのびと遊ぶ生前の主人公自身にとって、おそらくまるで無関係なものなのだ。中心的イメージからニセの意味を与えられた伝記のディテールたちは、中心に向かって吸い寄せられ、一語一語が同じ方向を指差しているかのように見える。「伝記なんて簡単さ」今からそう遠くないある蒸し暑い晩、エドウィンはそう言った。「起こったことを全部書けばいいんだろ」芸術家の気質というものが、昔から公正な判断を欠くものであり、エドウィンの場合、それがほとんど愚鈍と思えるほどに甚だしいことについては、今さら言う必要もないだろう。しかし、彼はそれだけにとどまらず、(彼の舌足らずな意見を正しく翻訳するならば)こうも言った。そもそも伝記という観念がすでに救いがたくフィクションである。なぜなら、現実の人生はクエスチョンマークや、伏せ字、空白、延々と続く脚注の行列、抜け落ちたパラグラフ、どこにもつながらない”……”の繰り返し、そんなもので満ち満ちているというのに、伝記が差し出すのは見せかけの予定調和であり、神のごとき伝記作家によって整然と並びかえられたディテールの集積にすぎない。そして伝記作家がときおり装ってみせる無知や不確実も、たとえば手の込んだフルコースのディナーを出した女主人が、こんなものは別に大した手間ではありませんでしたわ、と謙遜してみせるのと同じくらい空々しい欺瞞に満ちているのだ、と。エドウィンは、自分にとって優れた小説はすべて真実として映るのだと主張した。そのため、気狂い帽子屋やウミガメモドキの存在は完璧に信じることができても*2、マルハウス氏が愛すべきエピソードを語って聞かせたルイス・キャロルその人は荒唐無稽な想像の産物としか思えないという、奇妙な事態が彼の中で起こっていたのだ。(pp.183-185)
エドウィン・マルハウス』は「 エドウィン・マルハウス」という架空の人物の、「ジェフリー・カートサイト」という架空の伝記作者による「伝記」という設定になっている。
ところで、「起こったことを全部書けばいいんだろ」ということで、歴史と年代記(クロニクル)の違い、また完全な年代記(クロニクル)の(不)可能性についての議論を思い出したりした(Cf. 野家啓一『物語の哲学』*3)。