成田龍一『戦後史入門』

戦後史入門 (河出文庫)

戦後史入門 (河出文庫)

成田龍一*1『戦後史入門』を数日前に読了。


はじめに――歴史って何だろう?
第1章 戦争に負けてどうなった? 占領の話
第2章 知ってる? 「55年体制」って何?
第3章 経済大国? それっていつのこと?
第4章 「もうひとつの」戦後日本を見てみよう
第5章 歴史は生きている これからの日本
第6章 歴史はひとつではないが、なんでもありでもない
補章 「戦後」も70年たった……


あとがき
文庫版あとがき
参考文献
解説 池上彰「「歴史とは何か」――大人にも考える機会を与えてくれる本」

池上彰氏は「解説」で、

この本は、第二次世界大戦後の日本が、どのように復興したのかを、わかりやすく解説してくれる――と思って読み進めると、いやいや、どうしてどうして、そんな単純な本ではないのです。
私たちが、何気なく「歴史」だと考えていることが、なぜ歴史なのかをグイグイと読者に問いかけてくる、とんでもない本なのです。(p.231)
と書いている。適切な紹介だと思った。まあ「歴史」が如何にして書かれ「歴史」として流通するのかということもやはり「歴史」の対象であるというメタ歴史的な問題意識は、成田氏の『〈歴史〉はいかに語られるか』や『近現代日本史と歴史学』でも一貫している。成田氏は「歴史を勉強するということは、同時に歴史とは何か、という問いを考えていくことによって、より深められていくことになる」と言い(p.16)、さらに、「歴史」と「出来事」、或いは「歴史」と「年表」について*2、次のように省察する;

過去に起こった出来事(=事件)を扱うのですから、歴史はもう決まったことのように思うかもしれません。しかし、そうではありません。
たしかに歴史の出来事(=事件)は、もうそこにあります。しかし、それをなぞることが、歴史なのではないのです。たくさんの出来事から、ある出来事を抜き出し、別の出来事と結びつけて説明することが、歴史なのです。歴史は出来事を解釈し、語る営みです。「解釈」し、「語る」ということ。歴史といったとき、このふたつのことがかかわっています。(略)
(略)歴史は、もうきまってしまったことをいうのではなく、ある出来事を選び出し、他の出来事と関連づけながら伝えること、です。言い換えれば、(出来事を集めた)年表ではなく、出来事を選び出し説明することです。(後略)(pp.16-17)
後に、「歴史」と「記憶」の関係についての重要な省察も行われるのだが(p.73ff.)、ここから(誰にとっての、誰の視点からのか、という)「歴史」の立場性、(現象学の言葉遣いをすれば)「歴史」のパースペクティヴ性が導かれる。「主権回復の日」に対する沖縄からの反感の問題から語り始められる第4章「「もうひとつの」戦後日本を見てみよう」では、「中央の目線」、「中心からの思考」による「歴史」に対する「沖縄からの歴史、沖縄にとっての歴史」(p.149)、(男性からの、男性にとっての「歴史」に対する)「「女性から」の歴史、「女性にとって」の歴史」(p.150)、「在日朝鮮人・韓国人の歴史」(p.155ff.)が提起されている。曰く、

「われわれ」とは異なる「かれら」の歴史。
ちょっと難しい言葉を使えば、「かれら」の歴史とは「他者」の歴史です。
いままでの歴史の語り方は、すべてを日本人という「われわれ」のなかに閉じ込めてしまっています。つまり、歴史を窮屈に語ってきたのではないでしょうか。
私たちが学んできた歴史は、中心・中央の「われわれ」の戦後史であって、周縁の・他者の戦後史ということを考えたときに、その狭さが見えてくるということになります。「かれら」他者の歴史を考えることによって、歴史はもっともっと複雑で、もっともっと多様なものであるということがわかるでしょう。
こうした発見は、ただ教科書に載っていることをなぞっているだけでは、できません。「歴史とは何か」という問いがあって、はじめて可能になることです。(p.164)
なお、E・H・カー『歴史とは何か』が「あとがき」「文庫版あとがき」で言及されている。「歴史とは」「現在と過去の間の尽きることを知らぬ対話」(Cited in p.228)。
歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)