或いは「物語」の問題

AbemaTIMES「歴史の教科書から「坂本龍馬」が消える? 東大教授に聞く「歴史にロマンはいらない?」」http://www.huffingtonpost.jp/abematimes/sakamotoryoma-textbook_a_23277536/


曰く、


高校の歴史教科書に載る用語が半分になる可能性がある。14日の朝日新聞によると、「大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題」だとして、高校と大学の教員らで作る「高大連携歴史教育研究会」が用語の精選案を発表。知識を入試で問う用語を現在の3500語程度から約半分にすべきだとしているという。

「気候変動」「グローバル化」などの追加が検討されている一方で、日本史分野の削減対象にあげられているのが「坂本龍馬」「大岡忠相大岡越前)」「武田信玄」「上杉謙信」「吉田松陰」だ。いわば歴史上の"スター"だが、なぜ教科書から消える可能性があるのか。『けやきヒル'sNEWS』(AbemaTV)では、歴史学者で日本史を専門とする東京大学教授の本郷和人氏に見解を聞いた。

各人物に関するコメントは省略。まあそもそも大岡忠相*1が歴史教科書に載っていたこと自体知らなかった。また、これらの退場勧告を受けたという人たちというのは、その具体的なキャラクターやイメージに関しては、歴史教科書よりも、時代劇や歴史小説という経路でみんな知っているのであって、教科書から退場したとしても、日本人の平均的な知識にどの程度の影響があるのだろうか。
本郷和人*2の総論的コメントを引用しておく;

「僕も教科書を書いていて、子ども達に読ませることを考え大事にしているのは"物語の流れ"。しかしそういう教科書を高校の先生に見せると『我々高校の教員は、生徒たちに教科書は丸暗記しなさいと指導している。だから余計なことは書かないでくれ』と言われてしまう。僕はそれが間違いだと思っている。本来教科書に書いてある単語全部を覚えさせる必要はない。高校の先生が教科書を丸暗記させるのは、歴史用語や年号を答えさせるだけの"クイズのような入試問題"をだす学校が存在するから。だから私が歴史教科書の中に"物語"の要素を含めて叙述をしたら、『それはいりません』と切られてしまった。先生の大半は『歴史は学問だからロマンはいらない』と言うわけだけど、僕はそうではないと思っている。クイズのような試験を出す学校に合わせて、"単語を覚えさせるだけの授業が行われてしまっている現状"が悪いのであって坂本龍馬という単語が悪いわけではない。子どもたちの歴史離れが進んでいるのは、はっきり言って今の歴史教科書がつまらないからだと思う。」

また、それによって日本史が廃れていく可能性があるとし、「今の調子でいくと、あと30年で日本史は潰れると思う。歴史はみんなに勉強してもらってこその学問なので、坂本龍馬などの用語を削除しようと大上段から言ってしまう先生方の考えがわからない」と見解を述べた。

先ず歴史教科書を「丸暗記」させるというのがわからない。私の経験から言うと、教科書とは別に日本史用語集みたいのがあって、「暗記」するならそっちの方が効率的だった。今でも、みんなそうしているのでは?
ここでいう「ロマン」とか「物語」とはどういうことなのか。通俗的な意味での「ロマン」だったら、そんなの、教科書読まないで大河ドラマを視てろ! ということになる。歴史を貫く「物語の流れ」ということで想起されるのは、ジャン=フランソワ・リオタール*3が謂うところの「大きな物語(grands recits)」だろう。原始社会→奴隷制社会→封建社会→資本主義社会→社会主義社会という悪名高いスターリン主義的発展段階論もそうだ。無知からの解放という啓蒙の物語。また貧困からの解放という経済成長の物語。リオタールによれば、こうした「大きな物語」が妥当なものとして機能していたのがモダン(近代)であり、その信憑性が崩れることによって、時代はポストモダンになる。冷戦の終結に当たって、フランシス・フクヤマみたいに、「大きな物語」の大団円、つまり「歴史の終焉」を宣言してしまった人たちもいる。他方「大きな物語」の解体或いは終焉は物語=歴史の不可能性を示すのではなく、「大きな物語」に回収されえない*4マイナーな物語=歴史たちの可能性を示すという議論もあり、私もその通りだとは思う(cf. eg. 野家啓一『物語の哲学』*5)。改めて言う、どんな「物語」なのか。
物語の哲学 (岩波現代文庫)

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さて、事象としての、或いは学問としての「歴史」と他の自然科学や社会科学とを劃しているのは「歴史」の一回性(唯一無二性)であろう。「歴史」の一回性(唯一無二性)を象徴するのは「歴史上の"スター"」を伴った歴史的事件であろう。その多くは戦争や政局(政変)である。関ケ原の合戦とか太平洋戦争とか「民進党」解体=「希望の党」結成とか。「歴史上の"スター"」が(多くは男性である)軍人や政治家に偏っているのはこれ故である。ただ、「歴史」の一回性(唯一無二性)は承認した上で、(私が勝手に)民俗学社会学歴史学に対する優位性と呼んでいる事項がある*6。私たち一人一人の生(実存)が唯一無二のものであるのは当然だが、その一方で、私たちは習慣(habit/custom/practice)、つまり類型的な反復を生きているということも事実だろう。すなわち、私たちは例えば毎日飲み食いして、排泄して、家事その他の仕事をして、週に何回かセックスをするという生活を繰り返している。或いは、災害とか病気とかで、この習慣が崩れてしまうということもある。この準位があってこそ、「歴史上の"スター"」が大見えを切ることができるのだが、その一方でこの準位においては、「スター」たちの「スター」性は霞んでしまう。「スター」も一般人も同様に飯を食って、酒を飲んで、糞をして、性交っているわけだから。まさに、

富士の高嶺に降る雪も
京都先斗町に降る雪も
雪に変わりはあるじゃなし
溶けて流れりゃみな同じ
である。極言すると、「スター」がいなければ「歴史」じゃないというなら、そんな「歴史」なんて要らないよ、ともいえる。その代わり、表面化しなければならいのは、過去の生活の膨大な記憶(記録)だということになるだろう。