綴りと発音など

スティーヴン・ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』(岸本佐知子訳)*1から。
小学1年生の話。


エドウィンは、学校で習った読み方を、家の本を読むことでさらに補った。本棚の本を全部読み直し、知っている単語を探し、まだ知らない単語を解読しようとした。十月に習ったloneという言葉をヒントに、彼はただちに『ひとりぼっちの しま(Lonely Island)』のlonelyの読み方を知った。しかし、いっぽうでislandのisは彼を困惑させた。彼にはなぜislandを”イズランド”と読まないのか、理解できなかった。じっさい、字のつづりと発音の関係という問題は、エドウィンを最後まで苦しめた。doを”ドゥ”と読ませ、goを”ゴー”と読ませる言葉の創造主の気まぐれを、彼は決して許すことができなかった。エドウィンはまた、知らない単語は飛ばしたり適当にでっちあげたりしながら、カレン*2に本を読んでやるようになった。発音のできない見知らぬ言葉にぶつかると、彼は深く苦悩した。時には癇癪を起して本を投げ出し、自分を不愉快に陥れた本のほうから詫びを入れてくるのを待つかのように、不機嫌に黙りこくった。(pp.208-209)
また、少し前の箇所;

(前略)彼は熱心に文字の書き方を練習し、じきに文字の一つ一つに異なった印象を抱くようになった。エドウィンは、eやoのような文字よりも、bやhのように、上の濃いブルーの線*3に届くような背の高い字や、gやyのように、下の薄いブルーの線に届く字を特に好んだ。そして真ん中の薄いブルーよりは高いけれども上の濃いブルーには届いてはいけないtにとまどい、頭の上に夢のような点をつけているIやJに魅了された。形の似たもの同士を集めるのも好きだった。たとえばbとd、aとgはoにしっぽのついたものだが、後の二つは同じ側からしっぽが生えている。mはnが二つ、wはvが二つ、それぞれ合わさったものであり、大文字のGはCにおまけのついたものだった。大文字と小文字の形の上での関連性も、大きな問題だった。Cはcの大きくなったもの、Sはsの、Zはzの大きくなったもの。しかしDとdにはどんなつながりがあるのだろう? Gとgは? Qとqは? Eとeは? FとEは明らかに似ているのに、fとeの間には何の関連も見られない。fとtは、小文字の中で唯一横に棒があるという点で、仲間である。そしてeとcも。(略)初期の書き方の授業は、僕らに、文字は具象であるという観念を植えつけたが、エドウィンにとってはとりわけそうだった。文字の具象性――それは、彼が三歳の時に、アルファベットの絵本から学んだ観念に他ならないことを、読者は思い起こすべきだろう*4。(pp.204-205)
3歳の時の話;

(前略)マルハウス夫人が彼の沈黙期に買い与えた二冊の簡単なアルファベットの絵本のほうは、彼にも理解することができた。エドウィンはその二つを、日に何時間も飽かず眺めるようになった。一冊は、左側のページに大きなアルファベットが一つあり、反対側に他愛もない詩らしきものが並んでいるものだった。未来の大作家の心を捉えたのは、詩ではなくアルファベットの絵のほうだった。アルファベットは地面に影を落として立体的に描かれており、靴をはき、鼻のない顔をにこにこさせた平面的な小人たちが、それに戯れ、まとわりついていた。例えば、Aでは横の棒に一人がぶら下がり、もう一人が横の斜面を滑り降りていた。Bでは一人がてっぺんに腹ばいになり、もう一人が垂直の棒を登山するようによじ登り、三人目が横の棒越しにこちらを覗いていた。Cではカーブの底に一人が脚を組み、頭の後ろで両手を組んで寝そべり、上から膝でぶら下がっているもう一人を見上げていた。早い時期に植えつけられたこの”場所としての文字”という観念が、エドウィンの想像力に後々まで影響を与えたことは否定できない。何年も後になって、”言葉の世界を構築する”ことについて語った時、エドウィンは心のどこかで、、文字通り言葉と戯れることのできる場所――アルファベットによじ登り、穴から顔を出し、棒からぶら下がり、斜面を滑り下ることのできる場所――のことを考えていたのにちがいないのだ。
マルハウス夫人が与えたもう一冊の本は、文字には人格があることをエドウィンに教えた。Aは三角の部分に目がある、カイゼルひげを生やした紳士であり、Bは黒いシルクハットをかぶった雪だるま、そしてCはカウボーイ・ハットをかぶって横を向いたカウボーイだった。文字にはそれぞれの性格があり、単語には物理的な特徴があるとするエドウィンの理論のルーツを、我々はこの本の中に見ることができる。彼はよく、この手のナンセンスを滔々と語ったものだった――とんがり頭のA、太鼓腹のBとその息子のb、Cは三日月で、Dはテントウムシ、などなど。またエドウィンは、すべての単語は物に似ていると主張した。yellowは梯子と二本の煙突のある船、badはテーブルに向かい合わせに置かれた二脚の椅子、didは一列に並んだ三人の人間、といった具合だ。彼のこうした考えは、当時も、そして今振り返ってみても、あまりの幼稚さに僕を唖然とさせずにおかない。強いて何かの意味をそこに見ようとするならば、エドウィンが言葉に対してかぎりない愛着を抱いていたことの表れである。ということくらいだろう。それでいて、これらの絵本は――この、文字が文字以上の何かである本は――いつまでも僕の心に苦いものを残すのだ。エドウィンがこの二冊の本と出会ってさえいなければ……。(pp.80-82)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/04/11/142013 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/05/21/133657

*2:妹。

*3:日本の中学生が使う英語ノートのようなもの。

*4:このパラグラフに出てくるアルファベットは原文では活字ではなく、手書きのブロック体である。