「蠅叩き」(メモ)

上海にて (集英社文庫)

上海にて (集英社文庫)

堀田善衛『上海にて』について、「この本の中には、「文学」と「社会悪」の関係についての、さすが文学者! という感じの勘のいい一節もある」と述べた*1。ただ、その勘のよさが問題を孕んでいることも事実なのだ。取り敢えず書き出してみる。


(前略)私は、都会の魅力をうたった最高なものの一つとして、たとえばボオドレエルの詩の「悪の華」や散文詩「パリーの憂鬱」などを思い浮かべることが出来るが、けれども、私たちの(といってわるければ)、私の「都会の魅力」という概念にこびりついているものをよく検討してみると、その奥の方には、ほとんど絶対的な要素あるいは基礎として、“貧窮”というものがついてまわっていることに気付くのである。少し上品(?)な具合にいい換えるとすれば、消費の自由と不自由、あるいはひどい話ながら正直にいうとすれば、なにほどかでも人権無視の可能性、不可能性ということにそれがかかわっていることに気付く。都会の魅力、あるいは神秘は、必ずといっていいほど住民のある部分がまったく非生産的な、ひょっとして公けの保護を得られないかもしれないようなことに従事していること、それから、要するに社会から放ったらかされてどん底の暮らしをしていること、などと切りはなしがたい関係にあるらしいのである。かくいう私とても、なにも乞食、淫売、バー、キャバレ、逆クラゲ、無頼漢、ギャング、スリ、カッパライ、グレン隊、投機、囤積などが都会の魅力を構成するなどというつもりは毛頭ないけれども、それはしかし、どうしても悪、あるいはより厳密には――そういうことが厳密になることであるかどうかの議論は一応別として――社会悪と関係がある。ボオドレエルの詩や散文詩から、その材料になっている社会悪の諸相を、一つ一つ抜き出して、パリーの全人民、全市民が総がかりでもってこれを退治し征伐しようと努力し、それになにほどかでも成功したとしよう。すると、恐らく、ややこしいいい方だが、ボオドレエル詩類似のものを新たに考える、それをうたうことはむずかしくなろう。この征伐が徹底したとすれば、それが徹底した後の新しい世代は、ボオドレエルの詩をまともにうけとることを、ひょっとすると拒否するかもしれないし、註釈つきでしか理解しないかもしれない。社会悪による悲劇の在る社会と、政府をはじめとしてその悲劇を征伐しようと待ち構えている社会――そこには前者とは質のちがう悲劇が恐らくある筈であるけれども――とのひらきがそこに出て来るであろうと思われる。草野心平氏によると、ヴァレリーの序文をもらって陶淵明の仏訳詩をパリーで出版した詩人の梁宗岱氏は、現在広州の中山大学でフランス文学を教えているというが、蝿や蚊を全人民総がかりで叩き殺すように、旧社会の、悪の一切を総がかりで叩き潰し一掃することを建前としている国で、梁氏が熟知している筈のボオドレエル詩を若い世代に教えることは、なかなかの難事であろうと思う。またこの辺りのところから、資本主義国の革命運動、革命政党に対する過大評価、あるいは過大な期待が生じることがあるかもしれない。そして、社会主義国で、ドストエフスキーの人気がないこということの現実的な基礎も、あるいはこの辺にあるかもしれないと推察される。ド氏やポ氏の表現し得た人間性の本質は、恐らく不変、永遠であろう。けれども、それを表現するについて使われたメディアが一つ一つ公共の、つまり人民の征伐退治の対象になるとき、どういうことがそこに起るか。(pp.80-83)
悪の華 (新潮文庫)

悪の華 (新潮文庫)

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

巴里の憂鬱 (新潮文庫)


(前略)一人の資本主義社会のなかに生きる小説家として、仮に防腐材料や蠅叩きが四面四方にある社会に、突然(突然などいうことはありえない、それは各人の意志的努力、それこそ血と汗と涙なくして出来るわけのないものだが)――仮定として、突然眼覚めたとするならば、私は恐らく手なれたメディアを失って、一時は大困りに困るであろうと思う。文学が、要するにこれはたとえていってというにとどまることだが、蠅叩きのためのメディアになることに、恐らく私は我慢出来ない――そういう仮定をしてみよう。これはあくまで仮定にすぎないけれども、この辺のところに、社会主義社会において、屢々作家が大きなもめごと、政治的なもめごとを惹き起こすことのみなもとのようなものがあるのではないか、と推察されるのである。自由の質、あるいは方向が完全に異って来る。ここで一つはっきりことわっておきたいことは、文学に関して中国の現代文学が蠅叩きメディアになっているなどといっているのではまったくないということである。けれども、この蠅叩きメディアになりかねない、あるいはさせかねない政治的、社会的潮流から文学が独立しようとするとき、その方向の如何によっては、反革命、あるいは修正主義、または芸術至上主義、右翼偏向というような政治的非難、蠅叩きが加えられるということは、どうもありそうに思う。とにかく、私は社会主義社会における文学の在り方、その役割について、どうにもぴたりとわかって来ない盲点のようなものが自分にあるらしいと感じる。社会主義と文学の問題は、決して解決済みのものではない。それは恐らくその土地に住み、圧迫と革命闘争と解放、建設のためにつづけられる革命的思想闘争などの、血みどろな闘いをともにしなければ、どうしてもわかって来ないようなものであろう。けれどもその上で、こと文学に関しては、そういう闘いを実際にともにしなくても、読むだけでわかるものがなければならない筈ではないか、という疑問ものこってしまうのである。また、文学小説というものが、矢鱈と栄える、あるいは栄えた時期というのも、人類史全体という大きな観点に立てば、そんなに長いものでも絶対的なものでもないかもしれぬという考えも、出て来るかもしれない。また考えてみれば、資本主義社会における文学芸術という問題も決して解決ずみのものではない。それは極端に誇張していえば、敵対しているかなれあっているか、どちらかであるらしい。資本主義社会と社会主義社会の並存、対立は、人間とその社会の存在の仕方、その成り立ちについて徹底的なことを考えさせる。今日、世界の文学と哲学は、やはりこの問題を喫緊なものとして考え抜くことを要求していると思われる。とにかく、私自身を含めて、われわれの小説文学には、社会にあるデカダンスな部分を、養いにして、というよりはむしろ、それによりかかっているものがあまりに多すぎるのである。(pp.84-85)
ここで、亀喜信『ハンナ・アレント 伝えることの人間学*2から、

ジーグムント・バウマンによれば、近代文化とは造園文化であり、人工的な秩序のために「雑草」や「害虫」を除去しようとする。そしてバウマンは、近代の大量殺戮もまた「よりよい社会」を作るという目的を持った「社会工学」(social engineering)の一要素であると論じている。Cf. Zygmunt Bauman, Modernity and Holocaust, Cornell University Press, 2000, pp.91-92.(『近代とホロコースト』、森田典正訳、大月書店、2006年)(註57、p.199)
という註をコピーしておく。
ハンナ・アレント―伝えることの人間学―

ハンナ・アレント―伝えることの人間学―