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武田惇志「捨て子だった女性が、無戸籍のまま過ごした70年 やっと手に入れた「家族」との日々も、死後は身元不明の無縁仏に」https://news.yahoo.co.jp/articles/b68884b5d6418d31599ad18bf45b9c68f6a68682


今年の2月に、神戸市西区の天理教教会で或る女性が息を引き取った。


今年3月、ある女性が、身元不明で引き取り手のいない遺体「行旅死亡人*1として官報に載った。女性の名は橿本芳江(かしもと・よしえ)さん。氏名や住所があったが、それにもかかわらずに身元不明と扱われたのには訳があった。橿本さんは「無戸籍」*2だったのだ。

 なぜ無戸籍だったのか? 調べると、彼女は戦後、国鉄の駅に捨てられていたところを保護された孤児だったことが分かった。晩年は兵庫県社会福祉法人が支援していたことも分かり、私は法人側と連絡を取って6月、指定された神戸市西区の住所へ向かった。着いてみると、そこは天理教の教会だった。


二階建ての教会から出迎えてくれたのは、「社会福祉法人まほろば」(兵庫県三木市)常務理事の門口守子さん(83)と事務局長の中川敬悟さん(60)だ。天理教信者でもある2人は、教会で生活していた晩年の橿本さんを見守り、支援してきた。

 橿本さんが以前に暮らした施設から、門口さんらに引き継がれた記録などによると、橿本さんは1953年5月、国鉄神戸駅(現在のJR神戸駅)で、生後間もなくの捨て子として見つかり、保護された。両親が誰なのか、どういう背景があって放置されていたのかは全く分かっていない。

  「戦争が終わって8年しかたっていない時ですから、戦災による貧困など何かしら事情を抱えていたのでしょうね」と中川さんは推測する。本人の名前も、記録にあった1953年3月1日という生年月日も、保護した行政が設定したのか、両親が放置した際に何かしらの情報を残していったのかどうかも不明だ。


1953年に神戸駅で保護された橿本さんは、真生乳児院神戸市中央区)に預けられた。門口さんらによると、成長の過程で知的障害があることが判明したようだという。

 1983年に神戸市の職員が書いたとおぼしき「身上調書」によると、橿本さんは市立神出中(神戸市西区)の「特殊学級」(現在の特別支援学級)を卒業している。

 無戸籍のまま、どのような経緯で中学に通えていたかは分からない。25歳だった1978年末には、精神科専門病院の関西青少年サナトリューム(神戸市西区)に入院した。「院内では特に問題なし。日常的なことは自立」と現況欄にはあり、「まじめで質問に対してわからなければ聞き直すと言うように課題に取り組む姿勢が伺える。投薬を続ける必要があり、施設入所としたい」との所見も記されていた。

 橿本さんは約4年後の1983年6月、障害者支援施設の三木精愛園(兵庫県三木市)に入園。しばらくそこで暮らしたが、施設側からの依頼があり、橿本さんが36歳だった90年2月、知的障害者が共同生活する場となっていた門口さんの教会で引き取ることになった。それから2023年2月に亡くなるまでの丸33年間、橿本さんは教会で暮らし続けた。

どうして門口氏が天理教の教会を建て、そこが障碍者が生活する場となったのか;

話は、門口さんが長男を出産した1961年にさかのぼる。長男に種痘(天然痘の予防接種)を接種させたところ高熱を出し、危険な状態になった。医師からは、たとえ命が助かっても障害が残る可能性を伝えられたという。門口さん夫婦は神に祈るしかないと仕事を辞め、以前から信仰していた天理教の教会を建てた。

 その後、長男は無事に回復し、危惧したような後遺障害も残らなかったため、「長男の養育が終わったら、困っている人のお世話をしよう」と門口さんは心に決めたという。

 それから約20年後、パニック障害自傷行為で片目を潰してしまった男性を連れた父親が「どの施設も怖がって預かってもらえない、助けてほしい」とやってきた。引き取って世話をしているうちに、「あの教会ならどんな人でも支援してくれる」との評判が広がり、共同生活を希望する家庭が増え、教会の居住スペースもどんどん増築されていった。通所施設を望む声も出て、1985年に三木市社会福祉法人まほろばを設立することにもなった。現在、教会では約50人が共同生活している。

死後の吃驚;

今年2月10日、昼食の時間になっても橿本さんが部屋から出てこず、不審に思った同居人が様子を見に行くと、すでに事切れていた。外は10度以下の肌寒さで、時々冷たい雨が降った日だった。死因は心不全とみられるという診断だった。

 駆けつけた警察官から「本籍はどこですか」と尋ねられ、門口さんたちが改めて過去の記録を調べると、どこにも記載がなかったことに気づいた。そこで警察が調査することになったが、結局「橿本芳江」という人物の戸籍は見つからず、身元不明の「行旅死亡人」として官報に掲載されることになった。死後、銀行口座などに400万円近い貯金が残されたが、ほとんどが障害年金だという。今後、国庫に編入される見込みだ。

 行旅死亡人として行政の手で火葬されてしまったら、遺骨は原則、相続人となった親族しか引き取ることができない。橿本さんと暮らした人々は誰も、彼女が無戸籍だった事実を把握していなかった。


「芳江ちゃんは30年以上、一緒に暮らした家族の一員です。生前にお墓も作ってあるので、せめて分骨だけでもしていただけないでしょうか」と幸代さん*3は市の職員に交渉したが、「法規で決まっており、できません」との返答だった。仕方なく、出棺までの間に、駆けつけた事業所の職員らとひつぎを囲んで別れを惜しんだという。

 市の規定では、遺骨は5年間、市立舞子墓園(神戸市垂水区)に納められ、その後は公営霊園に納骨されることになっている。市の担当者は説明する。

 「神戸市の内規では、相続人がいないとき、正当な請求者と認められる場合なら遺骨をお渡ししても構わないとなっています。ですが現実問題として、官報に行旅死亡人として公告を出している以上、相続人が名乗りでてくる可能性も完全にゼロとは言い切れませんから、容易にお渡しはできないのです」

 門口守子さんは、行政が法規に厳格に従う必要を理解しつつ、それでも「むごいな」と感じざるを得なかったと言う。

天理教の教会の福祉的機能はもっと注目されて然るべきだとは思う。
橿本さんの人生において、何度もその居場所を移動した。また、銀行口座を作り、「障害年金」も受け取っているが、そのような際にも戸籍を参照されたということはなかった。死んだ後で初めて戸籍が必要となって、「無戸籍」という事実に直面したわけだ。このことは戸籍という制度の必要性を疑わせるには十分だろう。
ところで、「橿本」というのは珍しい苗字。ネット検索してみると、「橿本」は兵庫県赤穂郡上郡町中野或いは兵庫県洲本市五色町上堺に発祥し、日本全国でこの苗字を有する人は200人しかいないという。そのうち130名は兵庫県に在住している。兵庫県内でも、上掲の赤穂郡上郡町中野に30名が集中している*4