蛭など

先日、たしかワイド・ショー系の番組で、神奈川県の丹沢山麓の厚木市で山蛭が大発生していることを、謎の「吸血生物」大発生みたいなノリで伝えていた。
蛭と言えば、子供の頃、昔は漢方薬屋に生きた蛭が売っていて人々は蛭を買って血を吸い出してもらっていたということを、よく年寄りから聞かされていた。勿論、店で蛭を売っているところを見たことはない。というか、そもそも近所には漢方薬屋などなかった。
さてさて、


戸籍制度というもの自体が差別だが、この300日規定なるものは、明治時代にできたもので実情に合わない、とかそういうこと以前に、そもそも「貞操義務に反した」女性に対して(しかもその子供をいじめることで卑劣にも)嫌がらせをする、という目的がみえみえな、まあ「差別が法律という服を着て歩いている」というようなものだろうか。そういう法律はめずらしくないが。

さて、ニュースでは、この無戸籍児が役所に受けた仕打ちについて証言する母親のインタビューがあった。戸籍がないことで、子供は、定期健診や予防接種などが受けられず、母子手帳は空白のままだという。役所には何度も言いにいったそうなのだが、そのとき「あなたの子供はいないことになってますから」と言われたのだそうだ。

真実在としての「法律」の前では、現実存在をも否定するとは、これはひどい観念論者ですね。

こんな扱いを受けた親子、とりわけ当の子供は、その役人に対して直接暴力を行使する正当な権利があるように思う。

なぐられて「痛い」とかその役人が言ったら、「だってあたしはいないことになってるんでしょ?その痛みはないことになってますから」と言ってやって欲しい。
http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20080520/1211292855

というのを読んでいて、「主人公である騎士「アジルールフォ・デイ・グィディヴェルニ」は存在しない。存在しないにも拘わらず、存在しないものとして物語の中に存在し、それのみか存在する者たちとコミュニケーションをし、ともに行為する」*1というイタロ・カルヴィーノの『不在の騎士』を一瞬思い出してしまった。小説の世界はともかく、現実世界においては、「いないことになって」いる人間(アリバイ=現場不在証明が先験的に成立してしまっている人間)が「なぐ」ることは不可能であり、敢えて〈殴る〉という動詞を使ったとしてもNobody hitted.ということになるので、「痛み」があったとしても、その〈痛み〉は誰か(somebody)が殴ったことによるものではなくなる。かまいたちのようなものだ。ところで、存在しないことになっている者を逮捕できるかということがテーマになっている安部公房の戯曲があったように思えるのだが、例によって題名は忘れた。
不在の騎士 (河出文庫)

不在の騎士 (河出文庫)