船の話など

篠田航一*1「飢饉が生んだ移民と反英」『毎日新聞』2023年5月21日


少し切り抜き。


[ダブリン]市内のリフィー川のほとりに「ジーニー・ジョンストン号」という
船が停泊している*2。1840年代に主食のジャガイモの凶作による「ジャガイモ飢饉」に見舞われたアイルランドでは、多くの人が故郷を去り、新天地に移住した。その際、アイルランド北米大陸を16回往復し、1848~55年に2500人の移民を運んだのがこの船だ。正確に言えばこれは復元されたレプリカ。(後略)

ガイドの話や資料によると、1848年4月、船上で男児を出産したマーガレット・ライリーという女性がいた。ライリーは助けてくれた船医に加え、船長や多くの船客に感謝し、彼らの名前を次々に赤ちゃんに付けた。「ニコラス・リチャード・ジェームズ・ウィリアム・ジョン・ガブリエル……」と続き、姓のライリーを除くとその数は18。あまりに長いので、実際は略して「ニコラス・ジョンストン・ライリー」と名乗ったそうだ。まさに「リアル寿限無」である。
(略)
当時の船医だったリチャード・ブレナーハセットの指示も的確だったらしい。船客には朝、デッキを散歩して体を動かすことを勧めた。精神状態をフレッシュに保つためだ。近代的なトイレもない中、排せつ物は各自がバケツに入れて海に流し、決して船上に放置しない。こうして船を清潔に保ち、病原菌の拡大を防いだ。16回もの航海中、この船では一人も命を落とさなかったという。

(前略)飢饉で多くの人が餓死し、故郷を離れたため、アイルランドでは飢饉前に800万人だった人口が数年で650万人まで激減した。
当時のアイルランドは英国の支配下にあったが、英政府は十分な支援をしなかった。飢えているにもかかわらず、アイルランド人は海を隔てた英国の本土側(ロンドンなどがあるグレートブリテン島)に食物を輸出するよう強制された。さらにオスマン帝国の皇帝がアイルランドに1万ポンドの支援金を申し出た際、英政府はこれを1000ポンドに減額するように要請した。当時のビクトリア英女王による支援金が2000ポンドだったので、外国君主より女王の額が低いのは外聞が悪いという理由だったらしい。このエピソードを話す際、ガイドの男性の語り口からは、明らかに英国への「反感」が伝わってきた。

アイルランドの歴史に詳しい英クイーンズ大学ベルファストのリーアム・ケネディ名誉教授(76)*3は、「飢饉は民族意識の転機になりました。アイルランド民族主義はその前から存在しましたが、より強くなったきっかけは飢饉です」と指摘する。
アイルランド人の抵抗は長い歴史を持つ。イングランドアイルランド人で、「ガリバー旅行記」で有名なダブリン生まれの作家ジョナサン・スウィフト(1667~1745年)*4は飢饉の約1世紀前の1729年、一つの提案をしている。貧しいアイルランド人は、1歳くらいまで育てた子供を「食用として富裕層に販売すればいい」というものだ。論文の名は「穏健なる提案」(A Modest Proposal)である。
もちろんこれは諷刺作家の痛烈な皮肉だ。あえてショッキングな表現で、英国の支配に苦しむアイルランド人の窮状を訴えたのだ。