2つの湖

篠田航一*1「「悪魔の証明」は続くのか」『毎日新聞』2023年3月12日


悪魔の証明」とは何物かが「ない」ことを証明する困難を表す言葉。


最近、英北部スコットランドネス湖*2の巨大生物ネッシーの伝説を取材した際、よくこの言葉[悪魔の証明]を思い出した。広大な海と違い、湖は範囲が決まっている。素人考えだが、くまなく探せば「いるかいないか」は分かるのではないか。だがそんな甘い推測は否定された。「どれほど技術が発展しても、湖というのは隅々まで探すのが難しいのです」。そう語るのは、ネス湖畔に長年住み、ネッシー探索を続けてきた自然科学者のエイドリアン・シャイン氏(73)だ。
ネス湖

(前略)かなり細長い形をしており、長さは37キロだが、最大幅は3キロに満たない。怪物の目撃例は6世紀からあり、20世紀以降は首長竜プレシオサウルスに似た姿がイメージとして広がった。だが怪物と見間違えられた「候補」は複数あるとシャイン氏は言う。「ネッシーは人々の『解釈』の問題なのです。人は小さなものをつい大きく錯覚してしまうことがあります」。正体はおそらく船の航跡や水鳥の類いだったとシャイン氏は考えている。

(前略)英紙インディペンデントがケンブリッジ大所蔵の資料を基に報じた内容によると、鳥類学者のピーター・スコット氏は1960年、女王秘書官のチャータリス卿に書簡を送った。「ネッシーに学名を付け、女王の名を冠したい」との提案だ。女王は「非常に興味を持った」(同紙)とされ、スコット氏は「Elizabethia nessiae」(エリザベシア・ネッシエ)との学名を考えた。
だが結局、王室側は断った。「女王の名を付けた後、ネッシーがインチキだと分かったら大失態だ」「そもそも怪物に女王の名を付けていいのか」というのが理由だった。女王本人が乗り気でも、実在の「動かぬ証拠」(同紙)がなければ王室側もさすがに許可できなかったのだろう*3
オーストリアのトプリッツ湖。

(前略)「周囲約6キロ、水深103メートル。トプリッツ湖は小さな湖です。しかし木の幹が多く沈んでいて、湖底には泥が多い。水面は澄んでいるのに、25メートル潜ると光が届かず、一気に暗くなります。見事なくらい何かを隠すのに適しているのです」。潜水士の資格を持ち、湖を何度も捜索してきた男性は以前、湖のほとりでそう話していた。
湖の近くにはナチスに動員されたという高齢女性が住んでおり、私は2012年に会いに行った。女性は1945年5月のナチス降伏の数日前、ナチス親衛隊の男たちに脅され、荷馬車を用意させられた。男たちは70箱以上の木箱を荷台に積んで湖に行き、木箱を一つ一つ沈めた。女性はそれを目撃していたという。

戦後、一つのニュースが欧州を駆け巡った。ナチス高官のカルテンプルンナー(ニュルンベルク裁判で刑死)らが、終戦間際、大量の金やダイヤモンドをオーストリアの湖に隠したという内容だ。
こうして「宝探し」が始まった。トプリッツ湖は世界的な話題となり、映画「007/ゴールドフィンガー」(64年英国公開、65年日本公開)*4にも、主人公ジェームズ・ボンドの上司が「これがトプリッツ湖にあったナチスの金塊だ」と金を見せるシーンが登場する。59年には実際に西ドイツ(当時)の雑誌の取材班が湖底から木箱を引き揚げた。中身はナチスの書類や英国の偽ポンド札で、金塊はなかった。しかしこれはほんの一部で、女性が目撃した70箱の大半は不明だったため、金塊を求めてとレジャーハンターたちが世界中から殺到し、やがてダイバーの水死事故も起きた。騒動の過熱を防ぐため、オーストリア当局は63年に公式調査を実施。「18個の木箱を発見したが、中身は偽札や弾薬で、財宝はなかった」と発表して事態収拾を図った。大量の金塊は今も見つかっていない。