ドゥンス・スコトゥス(メモ)

山本芳久*1「後期スコラ学」(in 荻野弘之、山本芳久、大橋容一郎、本郷均、乘立雄輝『新しく学ぶ西洋哲学史*2、pp.104-123、2022)


この章で取り上げられているのは、ドゥンス・スコトゥス*3ウィリアム・オッカム
ドゥンス・スコトゥスについてメモしてみる。


スコトゥスは神学という学問の実践的性格を強調している。このことは、トマス*4の立場とは大きく異なっている。トマスは、神学は基本的に、理論的・観想的な性質を有する学問であると理解していた。この世界の根源である神をありのままに認識すること、聖書的な表現を使うならば、「顔と顔を合わせて」神を認識すること、そこにこそ人間の究極的な至福が見出されるとトマスは考えたのである。(略)
他方、スコトゥスは、神学の実践的な性格を強調する。神学を学べば学ぶほど、すなわち神のことを知れば知るほど、人間は、神を愛することへと方向づけられていく。そして、神との愛の関係を築き上げることへと向けられた様々な倫理的行為へと促されていく。そのような意味において、神学は「実践的」な学問なのである。
また、人間の理性にもとづいて自然本性的に知ることができるとトマスが考えた多くの事柄――例えば人間霊魂の「不滅性」や神の「全知」「全能」といった属性――について、スコトゥスは、哲学的に証明できる事柄とはみなさなかった。人間の理性に対してより楽観的な見方をしていたトマスにとっては「哲学」の領域に属するとされていた諸問題が、スコトゥスにおいては、哲学的に解決がつかず、聖書における神の啓示に依拠した神学的な議論によって初めて解決のつく問題として、「神学」の領域に属するとされるようになっていったのである。(p.106)
「存在の一義性」について。トマス・アクィナスとドゥンス・スコトゥス

神と被造物について同じ言葉が述語づけられる際、その言葉は、全く同じ意味で使われているのでもなければ、全く違う意味で使われているのでもないとトマスは考えた。例えば、「神は善い」と言われるとき、神以外の被造物――「人間」や「太陽」など――が「善い」と言われるときと、同じ「善い」という言葉が使われていても、その意味は同じではない。すなわち一義的(同名同義的)ではない。というのも、神の「善さ」は、被造物の「善さ」をはるかに超えているからである。創造主である神は、あらゆる被造物の創り主であり、それぞれの被造物にその「善さ」を分け与えた存在である。そうである以上、神の「善さ」は、被造物の「善さ」と同列に語ることのできるものではない。
だからといって、「善い」という言葉は、神について使われる際と、被造物について使われる際とで、全く別の意味を持つのでもない。すなわち、多義的(同名異議的)ではない。というのも、「はし」という語が「橋」を意味することも「箸」を意味することもあるといった仕方で、「善い」という言葉が、神について使われる際と、被造物について使われる際とで、全く別の意味を持つわけではないからである。有限な被造界と無限な神との間には決定的な相違がありつつも、それぞれの被造物は、神に由来するものであるかぎり、創り主である神との何らかの連続性・類似性を有している。こうして、神と被造物について使用される「善い」という言葉は、完全に一義的(同名同義的)でもなければ完全に多義的(同名異議的)でもなく、その中間的な在り方を持つとトマスは考えた。この第三の在り方は「類比的」と呼ばれる。「類比性」は、厳密に言えば「多義性」の一種であるが、「一義性」と「多義性」という両極に簡単に収めきることのできない微妙な在り方をありのままに捉えるために、「一義性」とも「多義性」とも異なる第三の在り方として独立させて考えることの積極的な意義が見出せるのである。(p.107)
「類比性」という発想はアリストテレスに遡ることができる(pp.107-108)。

(前略)スコトゥスによると、「存在」や「善」のように、普遍的に適用可能な述語は、神と被造物に対して、一義的な仕方で使用される。そうであるからこそ、被造界に住まう人間が、自らの周りに存在する被造物の在り方を手がかりにしながら、被造界を超越した神を認識することができるのである。(略)「神についての形而上学的探究は次のように進められる。あるものの形相的概念を考察し、その形相的概念からそれが被造物のうちでもっている不完全性を除去しつつ、その形相的概念を保持し、それに最高の完全性を十全に帰属させ、かくして、それを神に帰属させる」(『オルディナチオ』第一巻第三区分第一部第一・第二問題)。
ここでスコトゥスが「形相的概念(forma rationalis)」と言っているものは、あるものが持っている属性のことである。こうした属性――「善い」「賢い」「生きている」のような属性――を、それぞれの被造物は、有限な仕方で有している。どれだけ賢い人の賢さにも限界があり、全てのことを知り尽くすことはできないし、どれだけ長生きの動物の生命にもいつか終わりが来るように。だが、それは、その人や動物が有する限界であって、「賢さ」とか「生命」というものそれ自体が有している限界ではない。それゆえ、これらの人や動物が有している「生命」や「賢さ」を最高度に高めた在り方を想定してみることができるのであり、そうした無限に完全な在り方こそ神は有していると考えられる。 
だからこそスコトゥスは続けて次のように述べている。「たとえば知恵(または知性)、あるいは、意志の形相的概念。すなわち、それがそれ自体において、かつ、それ自体に即して考察され、その概念が何らかの不完全性や限界性を形相的に含んでいないことにもとづいて、被造物の内ではそれにともなっている不完全性からそれを切り離し、知恵と意志の同じ概念を保持することによって、それを神に最高度の完全性において帰属させる。それゆえ、神についてのすべての探求は、知性が被造物から受け取っている同じ一義的な概念をもつことを前提としているのである」。(pp.108-109)