山本芳久「後期スコラ学」(in 荻野弘之、山本芳久、大橋容一郎、本郷均、乘立雄輝『新しく学ぶ西洋哲学史』、pp.104-113、2022)*1
ウィリアム・オッカム(オッカムのウィリアム)について。
ウィリアム・オッカムは、後期スコラ学を代表する学者であり、同時に、スコラ学を崩壊へと導く大きなきっかけを作った。というのも、スコラ学とは、神学と哲学、信仰と理性の絶妙な区別と統合を本質とするものであったがオッカムの思想のうちには、神学と哲学、信仰と理性とを単に区別するだけではなく、それらを切り離し、分裂させる観点が含みこまれていたからである。(p.109)
「神の全能」から帰結する「主意主義(voluntarism)」;
オッカムの哲学は、「神の全能」という概念を軸に展開している。「神の全能」ということは、キリスト教の神学者であるかぎり誰もが認める真理だが、オッカムの場合、この概念が、神学・哲学の体系全体の原点になっているところに大きな特徴が見出される。
「神の全能」を意味するオッカムの基本概念は、「神の絶対的な力(potentia Dei qbsoluta)」という概念である。この概念は、「神の秩序づけられた力(potentia Dei ordinata)」と対になって使われる。
神は全能であるため、矛盾を含まないあらゆることを行うことができる。「ソクラテスは人間であり同時に人間ではない」といった論理的に自己矛盾した事柄は、神によっても実現不可能であるが、そえは、神の能力の限界を意味するのではない。そうではなく、その自己矛盾した事柄そのものが、原理的に実現不可能なのである。
神は全能であるため、自らの先行する決定を含め、何によっても拘束されることはない。この世界全体は、神による被造物であり、全能なる神の徹底的な支配下に置かれている。この世界の中に存在しているあらゆる秩序や自然法則もまた、神を拘束する力を持つことはできない。それどころか、逆に、それらは、全能なる神の自由な意志によって与えられたものであるかぎり、いつでも撤回可能・変更可能なものだということが帰結する。
この世界において現在成立している秩序や自然法則は、「神の秩序づけられた力」にもとづいている。すなわち、神は全能であり絶対的に自由に行為しうる存在であるからといって、常に予想不可能な仕方で無秩序に振舞う暴君ではない。この世界において成り立っている秩序――自らが与えた秩序――を、神はとりあえずは保持し続けている。だが、この世界にすでに与えられている秩序や法則は、「神の絶対的な力」によって常に変更される可能性のあるかぎり、この世界において成り立っているあらゆる秩序や法則は、暫定的なものにすぎない。(p.110)
「唯名論」と「オッカムの剃刀」;
(前略)「主意主義」とは、「主知主義(intellectualism)」と対比される概念である。「主意主義」とは「意志(voluntas)」を重視する立場であり、「知性(intellectus)」を重視する「主知主義」と対比される。オッカムの主意主義が顕著に現れるのは、倫理的な善悪に関わる場面である。問題は、善悪の究極的な基準は何かという倫理学の根幹に関わっている。
神が人間に何かを命じるとき、それが正しいことであるがゆえに神はそれを人間に命じると考えるのが、トマス・アクィナスに代表される「主知主義」の立場である。理性的に考えて正しいことであるがゆえにこそ、神はその事柄を命じるのであり、その正しさは、人間の理性によって十分に理解可能なものだと「主知主義」においては考えられている。
それに対して、オッカムの「主意主義」においては、事情は正反対になる。正しいことだから神はそれを人間に命じるのではない。神が何かを命じるから、それを為すのが正しいということになる。何が正しいのか正しくないのかという善悪を決定するのは、全能なる神の絶対的な意志なのである。こうした主意主義的な倫理学の端緒はスコトゥスにおいてすでに見出されるが、オッカムはそうした方向性を極限まで突き詰めて独自の倫理学を形成したのである。(p.111)
「オッカムの剃刀」が適用される最も代表的な使用の一つは、スコトゥスの作り出した「このもの性(haecceitas)」という概念に対する批判においてである。「このもの性」とは、スコトゥスが、個物を個物たらしめる原理――「個体化の原理」――として持ち出した概念である。「このもの性」は、ラテン語で「この」を意味するhaecという語を抽象名詞化して作られた造語である。ソクラテスをソクラテスたらしめ、プラトンをプラトンたらしめるものは何かという問いに対して、スコトゥスは、「人間」という「共通本性(natura communis)」に「このもの性」が付け加わることによって、個としての人間が成立すると考えた。この場合「このもの性」とは、ソクラテスをソクラテスたらしめる「ソクラテス性」やプラトンをプラトンたらしめる「プラトン性」にほかならない。
スコトゥスが、「共通本性」と「このもの性」との組み合わせによって「個体」を説明しようとしたことには、それなりの合理性がある。というのも、ソクラテスとプラトンに共通の本性――人間の本性――は、ソクラテスにもプラトンにもそして他の人間にも共通のものである以上、それだけでは特定の限定された個体(個人)であることはできず、それをこのもの(この人)に限定し特定する何ものかが合わさってはじめて特定のそのもの(その人)たりえるのだからである。こうした仕方で「共通本性」を特定の個物に特定するものこそ、「このもの性」にほかならないのである。
(前略)オッカムによると、「共通本性」という概念も「このもの性」という概念も共に不必要である。そもそも「共通本性」という普遍的なものが実在すると考えるから(個々の人間を離れて「人間の本性・人間であること」が実在すると考えるから)、その普遍的なものがどのようにして個体化されうるのか(「人間の本性・人間であること」がどのようにして「ソクラテス」や「プラトン」へと限定され特定されるのか)を説明するための原理が必要になるのであるが、オッカムは、この大前提そのものを否定する。すなわち、「共通本性」という普遍的なものが「もの」として実在することを否定する。それゆえ、「このもの性」といった個体化の原理そのものが必要なくなるのである。普遍(「動物」という「類」や「人間」という「種」など)は、ものとして実在するのではなく、たん案る概念であり、名前にすぎない。こうした立場は、「普遍」が「もの(res)」として実在すると考える「実在論(realism)」と対比して、「名前」を意味するラテン語nomenにもとづいて、nominalism(唯名論)と呼ばれる。(pp.111-112)