「関係」/「実体」/「目的」

山口希生「人間は何か、という問いへの明快な答え」『本のひろば』(キリスト教文書センター)769、pp.20-21、2022


河野勇一『人はどこから来て、どこへ行くのか? ≪神のかたち≫の人間観』の書評。
「河野勇一氏は本書の中で、関係概念、実体概念、目的概念という三つの切り口から立体的に人間存在の本質に迫っています」(p.20)。


(前略)キリスト教の視点からは、人間を他の被造物から区別する最大の特徴は神との人格的交わりを持つことにあり(関係概念)、それは人間が神の霊を与えられた霊的存在であるからこそ可能なのです(実体概念)。さらに人間が他の被造物と異なるのは、神から地を治めるという生きる目的を与えられていることです(目的概念)。(ibid.)

人が神を否定しようとする経口を持つのは、罪の結果として霊的部分に欠損が生じてしまい、神との良好な関係が失われてしまったためだ、というのが聖書的な見方です。したがって、キリスト教の提示する「救い」とは、人間が本来あるべき状態、つまり神との交わりを持つ存在に復帰することだということになります。この視点から、「義とされる」ということの意味を考えることは実に重要なのですが、本書はこの点を見事に説明しています。河野氏は、「義である」ということが西洋のキリスト教カトリックプロテスタント双方)の伝統では実体概念として、つまり人間が「義」という実体的な属性を所有しているかどうかという観点から捉えられてきたと指摘します。「義」を十分に持たない人間が義となるためには、不足している義を神から注入してもらうか(カトリック)、あるいはキリストが有する義を虚構的に自らの義として見なしてもらう必要がある(プロテスタント)、ということになります。しかし、「義である」とは、人間が神の目から見て「義」を十分に持っている(あるいは持っていると見なされる)かどうかという問題ではない、と河野氏は論じます。むしろ「義である」とは関係概念、つまり人が神と正しい関係にあるかどうかという問題であり、したがって「義とされる」とは、神との正しい関係に引き戻されることなのだ、と指摘しています(後略)(pp.20-21)

また、贖罪論についても実体概念ではなく関係概念から捉えていることも本書の重要な貢献です。つまり罪と十字架の関係について、実体的な公正(あらゆる罪は罰されなければならないという要求)を充たす必要があるという視点よりも、神と人間との壊れた関係を修復するために罪は克服されなければならないという観点から捉えています。その結果、神の(罰する)義と(赦す)愛という矛盾を調停させるものとしての十字架、というような見方からは自由な、神の愛の十全な表明としての十字架という視点が明確に浮かび上がってきます(後略)(p.21)