「別姓」という表現など

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090905/1252117392で、「夫婦別姓」という言葉を使ったのは、参照した文献での用語法に従ったまでであり、本来であれば夫婦別苗字というべきであろう。さて、tonmanaangler氏*1はこのエントリーを参照しつつ、(ダイ・ハードな右翼であろう)川西正彦氏のエントリー*2も参照している。先ず記しておきたいのは、tonmanaangler氏にしても、川西氏にしても、近代以降の名前の秩序の崩壊、特に姓と苗字の区別の消失という事態*3を自明な前提として思考しているということだ。それを踏まえた上での話だが、川西氏が大藤修氏の研究を援用して、江戸時代においては「夫婦同姓」が主流だったという主張には、同苗字と読み替えた上で、事実認識として賛成するところが多い。しかし、伝統的に夫婦同苗字が主流だったのだから「夫婦別姓」は認めてはならないと右派が主張することには賛成できない。それと同様に、フェミニストが「夫婦別姓」を推進する根拠として伝統的には夫婦別苗字が主流だった云々を持ち出すことにも賛成しない。夫婦同苗字という慣行はイエ制度を背景としており、イエ制度は家職・家業の成立を前提としている。近代においては、そのようなイエ制度が民法において法制化されたわけだが、既に遅くとも昭和初期には都市化や産業化の進展によって核家族化が進み、イエ制度という建前の現実からの乖離は明らかなものになっていた*4。つまり、夫婦同苗字の制度的前提はかなり怪しくなっていたのである。戦後の新民法においてイエ制度が否定され、夫婦をコアとした家族が制度化された時点で、イエ制度と結びついた夫婦同苗字の強制を廃止すべきだったということなのである。
幾度か引用している、岡野友彦『源氏と日本国王』から少し引いておく;


(前略)姓は「血縁原理」で継承されるため、たとえ誰と結婚しようと生涯変わることがないのに対し、苗字は「家という社会組織」の名前なので、結婚するまでは生家の苗字、結婚してからは婚家の苗字を名のるということになる(略)つまり夫婦は、姓の次元では別姓、苗字の次元では同苗字というのが「日本の伝統」であった。
したがって北条政子日野富子は、正しくは平政子・藤原富子と称すべきであり、実際、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』の建久十年(一一九九)二月条を見ると、政子は「従二位平政子」と記されている。それではなぜ、近世の歴史書以来、北条政子日野富子という呼び名が定着してきたのだろうか。私はこれにもまた、姓と苗字の混同という問題がからんでいると考えている。
中世の古文書を見ていると、女性が公的な文書に顔を出す場合、そのほとんどは「平氏女」「みなもとのうち」「藤原氏」「大江氏女」などと、実家の姓で表記されており、「久我尼」「相馬尼」のように婚家の苗字で表記されるのは、夫に先立たれ、いわゆる「後家尼」となった時に限られるようである。どうやらこれは、中世の女性が「家という社会組織」の正式な構成員として認められていなかったことを意味するらしい。
中世における「家」というものは、現代における「家庭」とはことなり、特定の家業と、それを経営するための家産を伝える「社会組織」に他ならず、それがたまたま一定の「血縁集団」によって運営されているに過ぎない。つまり、言うなれば現代における一族経営の会社組織のようなものとお考えいただければよいだろう。たとえば今日でも、たとえ夫が社長、息子が専務、孫が部長をしていたとしても、その社長夫人は決して組織の人ではない。しかし社長亡き後、その未亡人が社長職を引き継いだ場合、彼女はもちろん組織の人間となる。「後家尼」が婚家の苗字を名のるのとは、まさにそうした意味であった。
(略)中世女性の大多数は、「家」から疎外された、「氏」の世界にのみ生きる存在だったのであり、その結果、夫婦は別姓のままが一般的で、同苗字を名のるということはほとんどなかった。中世女性の氏名をめぐるこうした傾向は、十五世紀以降のいわゆる「下剋上」の中で、出自の姓が定かでないような家が台頭し、姓というものがほとんど使用されなくなった後も継続し、その結果、中世前期に「みなもとのうち」「藤原氏」などと称したのと同様の感覚で、秀吉の正室おねを「杉原氏」、徳川秀忠正室お江を「浅井氏」などと、生家の苗字で称するようになったらしい。北条政子日野富子などといった呼び方は、こうした流れの中で定着していったものと思われる。(pp.28-30)*5
源氏と日本国王 (講談社現代新書)

源氏と日本国王 (講談社現代新書)

ということで、「たとえば「北条政子」に見るように、少なくとも鎌倉時代までは日本では「夫婦別姓」が常態だったのは知っていたんだが(北条政子源頼朝と結婚した後も北条姓である)、いつまで「夫婦別姓」の習慣が続いていたのかずっと気になっていた」*6とカマヤンが述べるのもちょっと違うということになる。カマヤンは加地伸行儒教とは何か』(嗚呼、懐かしい!)を引いているのだが、加地氏が「婚姻をしても、夫婦夫々の氏に変動は起こらないというのが、キリスト教国を除く世界諸民族の慣習法であった。中国然り、韓国然り、アフリカ然り、そして日本また然りであったのである」と述べるのは、中国思想の専門家としては不用意であったかも知れない。個々人がfamily nameとgiven nameのセットを名乗るというのは決して自明なことではないのだ。実際、中国国内でも、チベット人やウィグル人は姓を名乗らない。但し、それはチベット人が家系という意識を欠いているということを意味しない。何しろ、チベットでは強固な貴族制度がずっと維持されてきたわけだから。
儒教とは何か (中公新書)

儒教とは何か (中公新書)


なお、「先祖代々」墓の起源については、取り敢えず岩田重則『「お墓」の誕生』が参照されるべきであろう。

「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌 (岩波新書)

「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌 (岩波新書)