「女系図」(メモ)

デイリー新潮編集部「平家は滅亡していない! 知られざる歴史の真相を解くキーワード「女系図」とは?」https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171017-00531582-shincho-soci&pos=1


曰く、


だが、「平家は滅亡していません」と語るのは、『女系図でみる驚きの日本史』を上梓したばかりの大筭ひかりさん(古典エッセイスト)だ。

「滅亡したのは、平清盛と彼の息子たち、それに彼の兄弟の男系の子孫に限った話です。兄弟でも源頼朝を助命した、池禅尼腹の頼盛は助かっていますし、名家に嫁いでいた清盛の娘たちは、それぞれ生きのびていて子を産んでいる。たとえば花山院兼雅妻となった娘の、やしゃごにあたる談天門院忠子は、後宇多天皇との間に皇子をもうけ、その子が後醍醐天皇となりました。また、その他の娘の血筋からも、複数天皇が誕生していて、それは今上天皇にまでたどりつきます」

この記事の趣旨は『女系図でみる驚きの日本史』という本の販促なのだが、これは別に突飛な発想ではない。というか、そんなの、今更驚くなよ、という感じ。吉屋信子の『女人平家』にも既にそのような視点はあったと思う。ただ、平頼盛はそもそも平家に潜入した源氏工作員という感じはありますね(Cf. 岡野友彦『源氏と日本国王』、p.117ff.*1。また、所謂源平の争いというのは実は桓武平氏内部の伊勢平氏に対する北条を中心とした坂東平氏による下克上と奪権と言えるかも知れない。その場合、源氏というのはたんなるミコシということになるけれど。
源氏と日本国王 (講談社現代新書)

源氏と日本国王 (講談社現代新書)


「一夫多妻の上、通い婚で、生まれた子供は母方で育つ、母系的な古代社会では、同じきょうだいでも『母』の地位や資産によって、出世のスピードや命運が決まるのはもちろんのことでした。当時は、娘が親の家・土地を相続することが多かったので、母親の財力は、しばしば娘に受け継がれていました」
確かに上代の日本社会は双系制だったわけで*2(Cf. 保立道久「奈良時代的王権論」in 徐洪興、小島毅、陶徳民、呉震(主編)『東亜的王権與政治思想――儒学文化研究的回顧與展望』*3)、徐々にその中の「母系」的要素が抑圧されていき、江戸時代に完全な父系制が確立するということなのだろうか。ただ、建前上は早くから父系に一本化されていたわけだが。「生まれた子供は母方で育つ」というのは母方居住制で、中世まで生き残った「母系」的要素と言えるだろう。母方居住制が特に〈物語〉に与えた影響。きょうだいは幼馴染であるという現代社会の常識とは違って、中世の母方居住制ではきょうだいというのは大人になって初めて対面を果たすべき未知の人だった。源頼朝源義経の初対面はやはり大人になってからだった。また、まだ見ぬ兄弟としての「犬士」を探し求めるという『南総里見八犬伝*4のストーリーは母方居住制における兄弟関係を反映しているといえる。