「焼畑」の弁護(メモ)

焼畑耕作」は森林破壊の元凶として非難されるだけでなく、持続可能性を欠いたものの喩えとして濫用もされている。
梅原弘光「風土と地理」(in 綾部恒雄、石井米雄編『もっと知りたいフィリピン 第2版』*1、pp.38-70)からメモ;


フィリピンではよく、最大の森林破壊要因は山間部族民による焼畑耕作であるといわれる。つまり、山地民が毎年森林の一部を焼いて耕作地を造成するのが森林破壊の元凶であるとする見方である。しかし、考えてみれば焼畑耕作民はすでに何千年もの昔からこの耕作方法を踏襲して生活を続けて来た。それは決して破壊的ではなかった。(略)[フィリピン]群島の大半は熱帯多雨林に覆われているが、そこは山地民が簡単に焼き払うことができるような空間ではない。彼らが利用したのは、本来、モンスーン林から湿潤サバンナにかけての部分で、しかも多くは二次林であった。だからこそ群島の各地には戦前まで広範にわたって原生林が手つかずのまま残っていたのである。
そうした耕作方法が破壊的になったのは、近年、低地からの大勢の土地なし農民が山間部に入り込むようになってからである。一九七〇年前後から稲作あるいはトウモロコシ栽培地帯など低地の中心的農業地帯では農業の商業化が著しく進んだ。また平野周辺部の畑作、樹木作物地帯では、同じ時期に輸出商品生産が一段と盛んになった。都市周辺部におけるオフィス街、住宅団地、レジャー施設など都市開発、山間部における電源開発なども進んだ。こうした農業商業化や各種開発の進展に伴って土地あるいは耕作権を失う農民が大量に輩出された。これら土地なし農民の多くは雇用を求めて都市に向かったが、同じく大勢のものは山地に上がって公有地に入り、そこで耕地を確保して焼畑による陸稲、トウモロコシなどの栽培を続けた。これらの農民の数は、一説によると一〇〇〇万人にものぼったということである。一家族五〜六人として一七〇万から二〇〇万家族にも達し、各家族が二ヘクタールの土地を占拠したとすると実に三四〇〜四〇〇万ヘクタールという広大な面積になる。これら低地からきた農民は焼畑耕作の伝統技術を身につけていたわけではないから、かなり収奪的な栽培方法を用いたことは事実のようである。その結果、焼畑耕作全体が森林破壊の元凶のようにいわれることになった。
熱帯多雨林やモンスーン林は、一般に人の侵入を容易に許すものではない。にもかかわらずなぜこれだけ大勢の農民がいとも簡単に山奥に入って焼畑耕作をすることができたのであろうか。実は、これにはマルコス政権期に急速に進んだ合法、非合法の商業伐採が大きく関係している。つまり、商業伐採が低地からの土地なし農民侵入の呼び水となったと考えられるからである。合法、非合法手段により政府から山林の伐採権を獲得した有力政治家、実業家たちは、材木伐採、運搬のための動力鋸、トラクター、ブルドーザーなど機械類搬入のために、まず林道を造成しなければならなかった。そうして、伐採権認可の条件だった選択的伐採、伐採跡地への植林など政府との約束にはお構いなしに、ただひたすらに利益増大を図って択伐ではなく皆伐に近い状態の伐採を続けた。低地を追われた土地なし農民は、この林道をつたって伐採跡の公有地に容易に入り込み、そこで焼畑耕作を始めたのである。
(略)熱帯多雨林そのものの破壊では、森林保護、伐採跡地の保全を無視してただひたすらに貴重な木材資源をわがものにした商業伐採の責任は大きい。その意味で森林破壊の元凶は、焼畑耕作民ではなく、これら森林伐採業者であったといわなければならない。(pp.63-65)
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