『新華僑 老華僑』

新華僑 老華僑―変容する日本の中国人社会 (文春新書)

新華僑 老華僑―変容する日本の中国人社会 (文春新書)

譚〓*1美、劉傑『新華僑 老華僑 変容する日本の中国人社会』(文春新書、2008)を最近読了。


はじめに


第一部 華僑三都物語(譚〓美)
一、長崎――唐人文化の息づく町
二、神戸――ふたつの中国世界が混在する町
三、横浜――政治に引き裂かれた世界


第二部 華僑社会の戦後史(劉傑)
一、「華僑」から「海外華人」へ――「華僑」概念の分析
二、中国人と台湾人の統合――戦後華僑社会の形成
三、国民党か共産党か――国共内戦の余波
四、分裂から融合へ――変貌する日本の華僑・華人社会


対談 「老華僑」と「新華僑」


謝辞
参考文献

老華僑(譚〓美)と新華僑(劉傑)による共著。
第一部は日本における華僑の三大集住地である長崎、神戸、横浜のルポ*2。少しメモ。
先ず関東大震災について。横浜中華街への影響――「経済が崩壊したため、貿易や商業に携わっていた「買弁」や貿易商などの富豪や中産階層がほとんど神戸へ移ってしまい、残ったのは「三把刀」などの技能労働者、商店や小料理店を経営する一般階層だけになった」(p.126)。さらに「中国人虐殺」について;

震災直後に横浜の本牧町ではじまった流言が、瞬く間に川崎、東京へと伝わり、朝鮮人虐殺事件を招いたことは、今ではよく知られる事実だが、中国人もまた同様の被害に遭っていたのである。
中国人の場合は、東京の江東区で「華工」と呼ばれる労働者たち七〇〇人あまりが、官憲と土地の自警団によってなぶり殺しにされた。彼らは浙江省温州出身の労働者たちだったが、港湾荷役や建設現場で日本人より低賃金で働く彼らに対して、「仕事を奪われている」と感じる日本人労働者たちが日頃から恨みを募らせていたという。
事件後、わずかに生き残った「華工」たちは日本政府の手で即刻上海へ送り返され、新聞報道も厳しく寄生されたため、中国では多くの証言者たちの記録が残ったが、日本では長く事件は伏せられた。
「華工」の支援組織のリーダーで、中国人留学生であった王希天が失踪した事件も発生した。(中略)ふたつの事件は当時、中国政府が日本に調査に訪れ、日本政府に強く抗議したが、結局うやむやに終わった(仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』青木書店、一九九三年)。
ところが一九七五年、「久保野日記」が公開されて、事件が白日の下に晒された。日記を書いた久保野茂次氏は震災当時、陸軍第一師団野戦重砲兵第三旅団第一連隊の兵士であったが、江東区の警備に当たっていて当事者たちから聞いた話を克明に書き残していたのである。事件当時は極秘事項として緘口令が敷かれていたという。
さらに一九八一年、王希天を殺害した当事者である垣内八洲夫元中尉が重い口を開き、証言したことから、事件の全貌が明らかになった。
(略)一九二三年九月九日、震災に遭った江東区の「華工」被災者たちの救済活動にあたっていた王希天は、突如憲兵司令部に連行され、翌日、亀戸警察署に移管された後、陸軍第一師団野戦重砲兵第三旅団第一連隊第六中隊の兵士たちに麻縄で縛られて徒歩で連れ出され、中川にかかる逆井橋で待ち受けていた垣内八洲夫中尉によって背中から一太刀のもとに切り殺され、中川用水路に投げ込まれたのであった。(pp.126-128)
また、

震災当時、横浜でも数件の華僑殺害事件が起きていた。震災当日の九月一日、横浜山下町の興昌洋服店の呉氏が殺傷されたのをはじめ、二日には華僑商人の張氏が鉄パイプで殴り殺され、四日には浙江省出身の学生だった韓氏が自警団に鉄棒や刃物でめった打ちにされて殺された(中華民国駐日公使館編『中華民国僑日被害調査票』一九二三年十二月七日)。(p.128)
また、「渋谷事件」について;

(前略)終戦直後の一九四六年七月、東京の渋谷で台湾人と日本の武装警官隊とが衝突した銃撃事件である。きっかけは闇市をめぐる台湾人露天商とやくざの抗争に始まったが、やくざに加勢した武装警官隊が台湾人と銃撃戦を繰り広げて、双方合わせて四三人の死傷者を出した。当時、日本を占領していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、「占領目的阻害」の罪名で台湾人四一人を逮捕し、三九人に有罪判決を言い渡した。
この事件は、華僑たちに衝撃を与えた。日本政府は無論のこと、戦勝国同士である連合国すらも、自分たち中国人を決して保護してくれる存在ではないのだと思い知らされたからであった。(p.108)
「華僑社会の戦後史」の叙述は、国共内戦以降の日本における中国共産党中国国民党の抗争、それに伴う華僑組織の分裂を中心とする*3。しかしここでは、現在の華僑の人口についての記述を引用しておく;

(前略)近年、台湾出身の外国人登録者数は三万九〇〇〇人台で推移している。これに対して、中国大陸各省出身の登録者のなかで、特に強い勢いで増加しているのは、東北地方(旧満州)の出身者であり、なかでも遼寧省の増加は際立つ。二〇〇一年現在と二〇〇五年現在の登録者数を比較してみると、四万九八八五人から一気に八万一〇八二人に急増したことに驚く。
日本人の間では、華僑といえば、広東、福建などの華南各省の出身者をイメージする人が多いが、実際には広東省出身者は、二〇〇一年の七二二二人から二〇〇五年の七九二二人に増加したものの、増加の度合いはわずかな程度に止まった。また、福建省出身者の場合は、登録者の全体数が広東省より多いため、増加数も相応的に多いが、それでも三万六七七人から三万九三三〇人に増加した程度である。
これに対し、東北地方出身者の合計は、二〇〇五年末現在で、一八万五〇〇〇人に達している。伝統的な華僑の出身地は、福建、広東及び三江地方といわれる江蘇、浙江、江西、安徽の各省であることを考えれば、近年の東北各省出身の登録者の増加傾向は確かに目を見張るものがある。
東北三省出身者の来日が増加していることについて、さまざまな理由が考えられるが、満州事変以降、日本がここに満州国を作り、それから太平洋戦争の終戦まで、事実上この地方を統治していたこととなんらかの関係があるのではないかと推測できる。(pp.251-252)

*1:王+路

*2:ただ、現実には日本における中国国籍の人の数は、東京、大阪、神奈川、埼玉、千葉の順である(p.146)。

*3:国共対立の影響による横浜の中華学校の分裂については、「横浜――政治に引き裂かれた世界」にも記述がある(p.135ff.)。