柵封体制の変容(メモ)

韓昇「論魏晋南北朝高句麗倭国冊封」in徐洪興、小島毅、陶徳民、呉震(主編)『東亜的王権與政治思想――儒学文化研究的回顧與展望』*1復旦大学出版社、2009、pp.16-26


先ず「中国古代王朝処理対外関係的一個重要方法」としての「柵封」について;


在以徳撫遠的思路下、招撫周辺国家、構建以中国古代王朝為中心的国際体系、就是対外政策的中心目標。在這個目標下、通過対周辺国家君主乃至臣下進行柵封、同中国皇帝結成君臣関係、成為外臣。所謂的“外臣”、是同皇帝直属的朝廷百官的“内臣”相対而言、分布在境外、或者辺遠偏僻之地、定期朝貢却“不知朝事”*2。這是中国古代王朝処理対外関係時経常採用的形式、用以構建以中国古代王朝為中心的国際体系。(p.16)
さて、「五胡」が中原に侵入し、西晋王朝が崩壊し、五胡十六国時代に突入すると、「東亜国際権力真空」が生まれ、それに伴って「柵封」にも変化が生じる(p.18)。先ず、「授予外臣軍職」、つまり「封号軍事化」(p.19)。東漢後漢)の「漢委奴国王」、曹巍の「親巍倭王」。南北朝に入って、宋の文帝による「倭王」の封号は「安東将軍、倭国王」。順帝は「使持節、都督倭、新羅任那加羅、秦韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」と「加封」している。封号のうち「倭王」の前は全て「軍職称号」である。

西晋滅亡以後、中国全境陥入戦争状態、軍事最以重要、各地紛紛以軍統政。故地方官以軍人出任、或者帯将軍号。重要的州刺史開幕府、中央政府亦令其持節以提昇品級、加重権威。没有帯将軍号的刺史受軽視、称作“単車刺史”、位卑権軽。因此、以軍統民、地方官帯将軍号是戦争時期普遍的現象。這種情況也反映到対外関係上、南北政権柵封外国君長多加将軍号、以示隆重、否則地位顕軽。把将軍号封給外国君長、就是在這種背景下出現的。(ibid.)
次いで、「授予国内地方官職」(p.20)。東晋安帝義煕9年(413年)の「高句麗王」柵封。その封号は「使持節、都督営州諸軍事、征東将軍、高麗王、楽浪公」(『南史』「夷貊伝」下)。「営州」は「国内的州」で、現在の河北省遷西県。勿論、この地を高句麗がコントロールしていたということはなかった。ここは北朝支配下にあり、(南朝の)東晋の支配も及んでいないので、「不具有実質意義」の「虚封」であった(p.21)。東晋を初めとする南朝政権は失地回復を試みて、常に「北伐」を行っていたが、常に「無功而返」であった(p.18)。なお、「地方官職虚封」は北朝政権でも行われていた(p.21)。
それから、日本列島の「倭王」に対する封号は、漢魏においては「漢委奴国王」、「親巍倭王」というように中国の王朝名が冠せられていた(「藩国王号」)。これは中国内地(雲南)に対する封号とは形式を異にする。1956年に雲南省「晋寧石寨山滇王墓」から発掘された「滇王之印」には「漢」という王朝名はない。この差異の理由について、韓昇氏は「史料不足」のため結論は下せないとしている(pp.22-23)。


「柵封」体制については、近代におけるその終結を論じた金鳳珍「近代における東アジア地域秩序の再構築」(in 加藤祐三編『近代日本と東アジア』、pp.33-59)を取り敢えずマークしておく。

近代日本と東アジア―国際交流再考

近代日本と東アジア―国際交流再考

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090919/1253330016

*2:漢書』「李尋伝」からの引用。