「建武の新政」(メモ)

承前*1

近藤成一「中世日本王権的分裂與統合」(徐洪興、小島毅、陶徳民、呉震(主編)『東亜的王権與政治思想――儒学文化研究的回顧與展望』*2復旦大学出版社、2009、pp.37-49)


近藤論文の第三節「関於建武新政」(pp.42-44)。
鎌倉幕府滅亡以後の後醍醐帝主導の「建武の新政」(「建武の中興」)が所謂皇国史観で高く評価されるのは当然だが、それ以外で「建武の新政」の歴史的意義を高く評価する歴史家として、


佐藤進一「幕府論」(1949)
清水三男『日本中世の村落』(1932)
松本新八郎「中世末期に於ける社会的変動」(1948)


が挙げられる(p.43)。また、佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965)における「建武の新政」の「原型」が中国宋朝の「君主独裁制」であるという指摘(ibid.)。
河内祥輔の「建武の新政」に対する消極的評価;


(前略)河内認為、後醍醐併不是有着特別“思想”的人物、在建武政府的構造中、看不出可以称得上企図実現君主独裁制的手法和新意、只是“将幕府的諸機制編入朝廷的混合物”、建武政府可以説是朝廷、幕府体制的変型。這個政府是因為1333年4月、5月的政変急激発展而成立的暫時政権。足利尊氏重建朝廷、幕府体制、才使真正的政権成立、建武政権顕然是過渡性質的。(pp.43-44)

(前略)河内認為、[鎌倉]幕府的崩潰是由於皇統分裂成持明院大覚寺両血統、且無法解決所致。河内的観点是基於這様的認識的、即幕府本来是以重建朝廷運動的主導角色登場的。幕府替代以前的摂関担負維持天皇“正統”的任務。河内認為、維持天皇“正統”就是幕府的職責。如果尽不到這個職責的話、幕府的権威就会下降。於是、後醍醐替代幕府作為解決皇統分裂問題的旗手急速顕露頭角。因此“後醍醐的倒幕運動是天皇主導的重建朝廷運動”。(p.44)

関於武士叛離[鎌倉]幕府的理由、河内指出是由於北条氏一族的桎梏統治。確実如此、武士決不是因為不満皇統分裂問題没有解決而叛離幕府的、而是因為北条氏一族無法実現武士対幕府的期望職責、才叛離北条氏一族的。武士対幕府的期望、併不是維持天皇“正統”、或者成為重建朝廷運動的主導者。(ibid.)
なお、国際的な視野に立つ歴史家は佐藤進一の視点を支持しているようだ。後醍醐は「君主独裁」、「文官優勢的官僚制国家」という〈普通の東亜細亜国家〉を作ろうとしたという村井章介(「建武・室町政権と東アジア」1988)の指摘(pp.44-45)。また、蒙古史家杉山正明(「モンゴル時代のアフロ・ユーラシアと日本」2003)の後醍醐の政治思想、政権構想、さらに密教主義は「当時大陸的文化」の模倣であるという指摘(p.45)。


河内氏の所論は、その詳細や究極的な結論は全く違うだろうけど、本郷和人氏(『天皇はなぜ生き残ったか』*3)「建武の新政」に対する評価が低いという共通点がある。また、鎌倉幕府崩壊に関して、本郷氏は幕府が「御家人」の権益ばかりを保護して、「貴族や寺社などの伝統的勢力、御家人になれない新興の武士勢力、商業活動に従事する勢力等々、多くの人々は不満を募らせていった」(pp.168-169)ことに求めている。因みに、「建武の新政」は「平成の小泉純一郎政権や昭和の中曽根康弘政権よりも短命であった」(pp.170-171)。

天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)

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