死んでも死なない

安田登*1『100分de名著 太平記 「あわい」を生きよ』 から。


ちなみに、日本語の「死ぬ」は、漢字の「死」とは系統を異にする言葉です。漢字の「死」は訓読みがなく、動詞にすると「死す」となります。死という漢字は、左側の「歹」が骨を、右側の「匕」は祈る人の姿を表す文字であり*2、「死す」は永続的な死を意味します。
これに対し、日本語の「死ぬ」は、しなしなになることです。民俗学者折口信夫は、しなびただけの一時的な死を表していると指摘しました。たとえば、神話時代を扱う『古事記』の上つ巻において「死」という字が使われるときは、ほとんどが一時的な死を指し、死んだはずの大国主命は何度も生き返ります。そして、完全に死んだと思われたときは、わざわざ「死に訖わる」という表現を使うほどです。(p.85)
折口信夫曰く、

(前略)古代の日本人には、今我々が考へて居る様な死の観念はなかつた。しぬといふ言葉はあつても、それが我々が考へてゐるしぬではなかつた。語から言うても、勢ひのなくなる事をあらはしたもので、副詞のしぬに萎をあてたりして居るのも、さうした考へがあつたからである。shinが語根で、それから直接出て来る副詞がshinuであり、更にこれがshinu + fu しなふ(萎)にもなつたのである。(「原始信仰」『折口信夫全集 第二十巻 神道宗教篇』、p.200)
また、同じ全集20巻に収録された「上代葬儀の精神」(pp.351-388)では次のように述べられている;

(前略)一体、死ぬといふことは神道ではどう扱つて来たか。死は現実にはあることだが、神道の扱ひ方の上では、それはなかつたので、つまり死は、生き返る處の手段と考へられてゐたらしいのです。つまり、日本の古代信仰は、死ぬものは生き返つて来なければならないと考へて居るから、本道の死といふのはない訳です。(後略)(p.352)

萬葉その外にある、しぬといふことは、しぬぶ――人を恋ひ慕つたりするしぬぶといふ語の語根になってゐるしぬと同じ語だと思ひます。それが、副詞になるとしぬに、「汝が鳴けば、心も思怒に古へ思ふ」といふ風に、心が撓つて居る状態をいふので、くたくた*3になつてしまつて疲れて居る、気力がもうなくなつてしまふ状態がしぬにです。そして、そのしぬといふ語の音を含んだ語は、沢山あり、其が、悉、意味が通じて居るやうに思はれます。心の底で思つて居ること、そして、その為にあんまり心が疲れて居るといふ風にも考へられるのです。これは字にして現さなければなりませんが、更にshinといふのは働かない部分です。しぬぶとかしぬにとか、或はしなふなどの語になつて居ります。といふには、語根として、shinといふ働かない語が這入つてゐます。所が、
母音uがつきますと、今度は完全にしぬといふ語になります。さうしますと、しぬといふ語になるのは、我々はしぬといふことは、はつきりと我々が考へて居ることを、しぬといふ状態を眼に浮かべますから、今申しましたshinといふ語根に母音がついて、しぬといふ動詞が出来たといふことは、納得できないのですけれども、元を考へて見ると、くたくた*4になつて元気がなくなつてしまふ状態だつたと思ふ。(略)
shinなる語源はくたくた*5になつて居るといふ意味から、段々展開して来たものだと思つて居ります。つまり、日本人がしぬといふ語を明瞭に意識して来初めたから、しぬといふことの内容が増して来たのだと信じて居ります(後略)(pp.352-353)