石川淳と「エクリチュール」(メモ)

石川淳*1『文林通信』は、1969年12月から1971年11月までの『朝日新聞』の「文芸時評」を集めた本。単行本としての初版は1972年。
1970年2月分の中で、石川淳ベ平連系の雑誌『週刊アンポ』*2について、以下のように述べている;


ここに見る活字の行列は、文章上の種目に依つてこれを分類すれば、どういふことになるか。もとより小説ではない。評論といふのともちがふ。エセエでもなくリポートでもなく取材記事でもない。分類は無意味である。すべての文章形式から、あるひは文學オブジェからはづれたところに、文字をもつてあらはされたものが現前してゐる。単純な、すなはち原始的なかたちを取つたエクリチュールのやうである(ecriture. まだ定まつた譯語がない。このままにしておく。)「週刊アンポ」は虫的な表現になつてゐるから、かならずしも文字にたよるにおよばない。記號だの寫眞だの漫畫だのがまじつて効果を出している。それは石にきざむ代りに紙にしるした象形文字のやうに見える。文字のあつまるところ、おのづから文章の體をなしてはゐるが、小説とはちがふから、それ自體に於て世界を構成してはゐない。この紙が流布されてゆく現實の世界がただちに紙の上に通ずる。したがつて、しるされたことばの意味は文章の中にではなく、ただちに現實の世界に照らし合はせて、げんにある事と、今後にあるべき事と、すべて事にあたりをつけて解するほかない。たとへばニクソンといふのはなにをあらはすか。サトー*3というのは日本の人名のやうだが、あるひは単にニクソンの縁語なのかどうか。その他いろいろ。ここはロラン・バルトのいはゆる意味の學問セミオロジイを應用して考へるべきところかも知れない。(pp.29-30)*4
ここで夷斎先生、「エクリチュール」なる片仮名言葉をいきなり使っているのだが、この仏蘭西語に由来する片仮名言葉が日本の文人たちの間で普通に使われるようになったのは何時頃のことなのだろうか。石川淳の「エクリチュール」はかなり早い用例なのだろうか。ちょっと疑問。ただ、夷斎先生は元々仏文の人なので、この言葉を使うことに不自然さはないのだが。因みに私が「エクリチュール」なる言葉を知ったのは大学に入ってから。
また、片仮名書きの「アンポ」について曰く、

まづアンポとはなにか。これを漢字で安保と書けば、ただの略語であつて、略語としてよりほかの意味はもつてゐない。しかるに、アンポと記すと、なんのこととも知れないカタカナ三字でありながら、音はたちまち字形の外に飛んで、高いところに、また廣いところに意味を發する。アンポといへばフンサイとひびく。意味はこのフンサイのはうにはつきり出る。あるひは、さうさけぶひとびとの運動に、その運動がおこなはれる現場の状況に、つよく出る。一般にひとが自分の主張なり決意なりをずばりと表現しようとするとき、その手段はことばにうつたへるだけとはかぎらない。こぶしを空にむかつて突きあげたり、指でV字のかたちをつくつてみせたりする。いさましいサインである。アンポのさけびも効果に於てこのサインにひとしい。すなはち、アンポというのは尋常のことばではなくて記號言語である。かうなると、これをことばのちがふ他國にもち出しても、翻譯におよばず、ローマ字に書いて通用する。すくなくとも、これを通用させることができるといふ見込がある。げんに、小田實君*5は「世界」連載の旅行記の中に記號アンポがニューヨークで通用したといふ事例を示してゐる。(pp.27-28)
広島→ヒロシマ
(最近だと)
福島→フクシマ