三河島由来(メモ)

現在は地名としては存在せず、駅名としてしか残っていない荒川区の「三河島*1
その由来について。


■ 三河島(みかわしま): 東京都荒川区

# 三河島駅(みかわしまえき): JR東日本常磐線。東京都荒川区西日暮里。

・ 三河島三河ヶ島、三川ヶ島とも書いた。地名の由来は以下の諸説あり。

① むかし、中洲が三筋の流れに囲まれていたことに由来する。

② 15世紀に、木戸三河守源孝範の屋敷があったことに由来する。

③ 小田原の北条氏の家臣の細谷三河守の領地だったことに由来する。

【地形を感じる駅名の秘密 東京周辺 内田宗治 じっぴコンパクト新書】

# 以下の三つの説があるが、③が良いだろう。

① 北条氏の時代に細谷三河守がこの地を支配していた。

② 徳川家康三河国から連れてきた家臣にこの地を与えた。

③ 荒川の中州になっていて、三つの流れがこの地に流れ込んでいた。

【おもしろ地名・駅名歩き事典 村石利夫 みやび出版】
https://folklore2017.com/timei700/70024.htm

また、ちょころり「三河島の由来」*2に曰く、

区制が敷かれる前は北豊島郡三河島町でした。その後、日暮里町南千住町、尾久町と合併して荒川区が生まれました。区名を決める時は三河島区という案も出たほどでしたが、最終的には荒川区になりました



その後は荒川区内の町名として三河島が残っていたのですが現在は東日暮里や荒川という町名になっています



三河と付くので徳川家康の家臣の領地であったという説がもっともらしく唱えられたりするのですが、徳川家康の江戸入府以前からある地名で、戦国時代に関東を治めた後北条氏の書物にもその地名が出てきます



中世には中川、古利根川、荒川などの三つの河川が流れ込んで来ていて、中洲ができたので三川島となったとか



木戸三河守という武士や、細谷三河守という武士の領地であったためなどと言われております

なお、「峡田」という言い方もある;

三河島を表す言葉で「峡田」という名前があります。荒川区の大部分は将軍家の菩提寺寛永寺の治める土地で、峡田領と呼ばれていました。三河島の住民は将軍家につながる寛永寺領であることを誇りに思っていました。

実際に、明治維新の上野山戦争では寛永寺の住職である輪王寺宮は峡田領を目指して落ち延びてきました。

現在、三河島、町屋地区の小学校名に峡田が冠されているのはこの地域の人達が峡田領に誇りを持っていた証です。三河島、町屋地区の小学校の校章には三河島菜があしらわれています
(兒玉匡一「三河島ってディープなの?」https://arakawa102.com/history/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E7%B4%B9%E4%BB%8B%E3%80%8C%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%B3%B6%E3%80%8D%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%B3%B6%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%81%AA%E3%81%AE%EF%BC%9F/

さて、三河島というのは周縁的なイメージをついつい抱いてしまうが、実は荒川区役所の所在地であり、行政的には寧ろ中心といえるだろう。それから、常磐線三河島駅の所在地は「東京都荒川区西日暮里1丁目」である;


河嶌太郎「東京23区屈指の閑散駅「三河島」には何があるのか? その住所は「西日暮里」な下町」https://trafficnews.jp/post/92256


ところで、まだ「三河島」という地名も存在していた昭和30年代の三河島の面影を伝えるものとしては、荒木経惟のデビュー作『さっちん』。1962年に撮影された。