秀吉は「桃」を知らず


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学生時代、京都に住んでいた者と致しましては、近鉄京都線の「桃山御陵前」という駅名を思い出してしまう話です。勿論、駅名の由来は「伏見桃山陵」ですが。ちなみに、1946年に昭和天皇が敗戦のお詫び行脚(!)の為に伏見桃山陵と橿原の神武陵、そして伊勢神宮へ行った際には、全て鉄道省の路線を使い、私鉄は一切利用しませんでした。

京都市伏見区の「桃山」について;

桃山
ももやま


京都市南部,伏見区の一地区。東山連峰南端の丘陵に位置。前面に宇治川を控え,南山城地方が一望できる自然の要害地で,慶長1 (1596) 年豊臣秀吉伏見城を築き,丘陵西斜面に城下町が発達。元和5 (1619) 年城が取りこわされ,跡地にモモの木が植樹されてモモの名所となり,地名の由来となったといわれる。城跡に明治天皇伏見桃山御陵,乃木神社があり,1964年には城が再建された。近年,宅地化が進んでいる。
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)
https://kotobank.jp/word/%E6%A1%83%E5%B1%B1-142776

また、Wikipediaの「桃山丘陵」の項;

京都市伏見区の桃山地区は、かつては伏見城を中心として多くの大名屋敷が集まり一大政治都市として発展した地区であり、現在も域内の町名にその名残をとどめている[1]。慶長3年8月18日(1598年9月18日)に豊臣秀吉が生涯を閉じたのも、慶長8年(1603年)、徳川家康が将軍宣下を受けたのも、この桃山にあった伏見城においてである。

桃山丘陵は桃山地区の北半分を占め、東山から深草丘陵を経た連なりの最南端に位置する。古代、木幡と呼ばれた地域の北端であり、伏見城築城前までは木幡山と呼ばれ、山頂には桓武天皇の陵があったともいわれる。廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになり、織田・豊臣政権期の時代区分「安土桃山時代」や、その時代に花開いた「桃山文化」などの呼称の元となった。現在は、伏見桃山陵や柏原陵のある桃山陵墓地、乃木神社伏見桃山城運動公園などがあるほかは閑静な住宅街で学校も多く立地し、緑豊かな探鳥地としても知られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%B1%B1%E4%B8%98%E9%99%B5

要するに、「安土桃山時代」に「桃山」はなかった。当然、豊臣秀吉も「桃山」を知らなかったことになる。
ただ、このことが知られたのはかなり最近のことのようでもある。上掲のWikipediaが典拠として挙げている2016年の『伏見経済新聞』の記事;

2016.11.19
伏見・桃山は江戸時代のタウンページで使われ定着した名称 歴史研究グループが発表
桃山の地名が初めて使われた「伏見鑑」



 伏見の歴史を研究するグループ「伏見城研究会」が御香宮神社(京都市伏見区御香宮門前町)で11月18日、桃山の地名の由来などの研究成果をまとめた書籍「俯水録想(ふしみろくそう)」の刊行・記者発表を行った。



 「伏見城研究会」は1974(昭和49)年に、御香宮神社の三木善則(そうぎよしのり)宮司が中心となって設立した研究会。1969(昭和44)年から三木さん、星野猶二さん、高嶋勲さんが行ってきた瓦などの伏見城遺物収集活動が拡大発展する形で、研究会になった。これまで「伏見城下(豊後橋町)・発掘調査」「淀城・発掘調査」「淀城天守台・発掘調査」など、京都における近世考古学の先駆けとして大きな成果を収めてきた。

 現在は考古学だけではなく、伏見城下や伏見周辺地域の古代から現代に至る歴史を研究対象として、伏見に所縁のある約20人の会員が研究活動をしている。

 御香宮神社禰宜(ねぎ)で会長代行の三木善隆さんは「現在、父親でもある三木会長(宮司)が病気療養中のため、私が会長代行を務めている。創設時の中心メンバーだった星野さん、高嶋さんがお亡くなりになった後、京都府立大学教授の堀内明博さんが古地図や古文書調査で支えて頂いた。しかし堀内さんも突然お亡くなりになってしまい会の存続が危ぶまれた時に助けてくれたのが、今回の書籍刊行でも中心になって活動している西野浩二さん」と研究会の歴史を説明する。
 「西野さんの呼びかけで、若林正博さんなどの会員も加わり、研究成果の発表などを行う集会を月に一度開催する形になった。その流れで現在の史実に基づいた研究・発表を行うというスタイルになっていった。今回の書籍刊行は新しい研究会になってから最初の研究発表をまとめたもの」とも。

 今回の「俯水録想」では7世紀~8世紀の考古学を専門とする西野さんが「山科西野山古墓に関する考察」を、伏見の歴史研究家で伏見の町歩きツアーのガイドも務める若林さんが「伏見城跡地の変遷と地名としての桃山の定着」「堀内村(現在の伏見区桃山学区一帯)沿革史」を執筆した。

 桃山の地名は伏見城跡とその周辺に桃が植えられたことに由来するとされている。しかしいつから公に使用されたかは、これまで明らかになっていなかった。

 若林さんによると「今回、御香宮神社に保存されていた『伏見鑑(ふしみかがみ)』という1780年に発刊された本でその名前を発見した。『伏見鑑』は現代でいうタウンページのような本で、観光案内的な要素も盛り込まれている」と説明。
  「この本と同じ年に発刊された『都名所図会』にも伏見城跡に関する記述があるが『桃木原』『城山』などと書かれている。しかし7年後の第2巻では『桃山』となっている。これは『伏見鑑』で使用された『桃山』の名称が定着して、他の書籍にも広がっていたと見るのが正しい」と話す。

 「俯水録想」は非売品のため基本的に販売はしない。京都市内の公立図書館に寄贈する予定になっている。

 西野さんは「今後も史実を丁寧に拾い集めて研究・発表していきたい。少しでも地域の方に伏見の歴史に興味を持って貰えたら嬉しい」と話す。
(後略)
https://fushimi.keizai.biz/headline/171/

ところで、桃山学院大学は京都の伏見とは全く関係ない。大阪の大学。大阪市阿倍野区で創立され、現在は本部を大阪府和泉市に置いている。何故「桃山」なのかを理解するには大学以前の学校法人「桃山学院」の歴史を辿らなければならないようだ。1890年に現在の大阪市天王寺区筆ヶ崎町に中等教育機関「高等英学校」が設立され、その周囲が「桃の名所として親しまれており、「桃山」と呼ばれていた」ので、1895年に「桃山学院」と改称された*1