2014/2011

図書館から、乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』を借り出した。2015年の本。2014年の「ウクライナ危機」の記憶も新しい頃に出た本。
「はじめに 一九六八/一九九一年の亡霊」から少し書き写してみる。


(前略)一九九一年のソ連崩壊後しばらくは鳴りを潜めていたこの国*1は、今世紀にはいるとふたたび「私たち」の世界に敵対しはじめた。二〇一四年のウクライナ危機でそれは頂点に達する。ロシアの西隣のウクライナで政変が生じると、親ロシア政権の崩壊に報復するかたちでロシアがウクライナ領クリミアを併合*2、さらにウクライナ東部で親ロシア派が分離独立を求めて武装蜂起し、状況は泥沼化してゆく。「新冷戦」という言葉がくりかえされたように、一方がアメリカとEU、他方がロシアの支援を受けた軍事勢力が第三国で衝突するさまは、冷戦時代の代理戦争を彷彿させた。
二〇一五年現在、膠着状態に陥っているこの危機にも、たしかにプロレス的なところはある。EUとロシアはいまや、商業とエネルギーをとおして切っても切れないパートナーだし、アメリカもウクライナに軍事力を割く余裕はない。プーチンが核のカードをちらつかせようとも、しょせんは脅しないしは虚勢にすぎず、核兵器による敵の殲滅が選択肢にあった時代とは違うのだ。とはいえ、「私たち」の世界秩序に対抗するために武力行使も辞さない勢力が、イスラーム原理主義の過激派だけでなく、国連安保理常任理事国のなかにもいることが明白になったのは、思いもよらないほどではないにしろ、驚きではあった。思いもよらないほどではないというのは、冷戦後に進んできたEUNATOの東方拡大の限界がウクライナであり、それ以上には決して進みえないことはみなが自明視しているようだからだ。世界を二つに分断しうるひび割れはいまも走っていて、向こう側の「彼ら」との闘いの呼びかけをそこに聴きとる人々がいるのかもしれない。(pp.3-4)
2022年には、2014年の「プロレス的な」「膠着状態」は維持し難くなったと言えるだろう。

一九九一年に終わったはずの東西対立が亡霊のごとく蘇ったのが二〇一四年だとしたら、その三年前にはもうひとつの、一九六八年の亡霊がふいに回帰して私たちの虚を突いた。「アラブの春」、スペインの「M-15運動」、イギリスでの暴動、アメリカの「ウォール街を占拠せよ」と、性格はそれぞれ異なりつつも世界各地を徘徊した対抗運動の亡霊は、日本には東日本大震災後の反原発運動という、最も予想されなかったかたちで現れる。デモの規模だけでなく、街頭運動が世論と相携えて広がってゆくさまは、「政治の季節」とはかくあったかと思わせる光景だった。
そして年も暮れるころ、亡霊はその到来がやり予想されていなかったロシアにも回帰する。下院選挙での不正疑惑をきっかけに、絶えてなかった数万人規模の反政府デモがモスクワで起きたのだ。二〇〇〇~二〇〇八年に大統領を務めたあと、再選制限規定による首相に退いていたプーチンが、翌二〇一二年の大統領選への再出馬を表明したことに対する不満が背景にはあった。翌年五月に結局プーチンが大統領に帰り咲くまで、数度にわたり挙行されたデモのたび、モスクワの街頭は人波に呑まれることになる。一九九三年に当時のエリツィン大統領が議会と対立し、軍隊を投入して最高会議ビルを制圧するに至った「モスクワ騒乱事件」以来、政治に対する忌避と諦念に覆われたロシアでこのような光景は見られなかった。(pp.4-5)
この本では、露西亜生まれの政治哲学者アイザイア・バーリンのいう「消極的自由」と「積極的自由」の区別が重要な役割を果たしているらしい。