「経験」としての精神分析(十川幸司)

十川幸司精神分析オートポイエーシス」『春秋』(春秋社)458、pp1-4、2004


曰く、


精神分析は一つの人工的な経験である。ある特殊な設定のもとで、患者は分析家に対し思いついたことを自由な形で話す。分析家の方は注意深くそれを聞き、解釈を加える。外から見るなら、分析が行われていることはこのような行為の繰り返しである。しかし、その内側を見るなら、患者と分析家の関係は独自の空間と時間を形成しつつ変転し続けている。その中で患者は過去へと深く沈潜し、かつて想像もつかなかった未来の方向性を見い出すことになる。また自己の同一性が根本的に覆されることによって、新たな自己を発見する。分析家の方も、分析関係の中でかつえの思考が解体され、別の思考へと促される。と言っても、分析の経験はこのように一般化できるわけではなく、各個人によってその経験は全く異なったものとして経験される。それは私たち各人がこの世界を同じようには経験していないのと似ている。分析経験はその人が生きてきた歴史と感性、さらに分析家の考え方や資質などによって性質も方向も異なった別のものへと変わりうる。
このように精神分析は、そこに多くの複雑な要因が絡んだ多様な経験を生み出すのだが、精神分析理論はいまだこのような経験の多様性を把握し、記述する方法を持っていない。従来の精神分析理論は分析経験をある特定の視点へと還元することによって、経験を平板で単純化されたものへと変えてしまっている。しかしこのわかりやすさは分析家の思考を鈍らせ、精神分析をその本来あるべき姿から変質させるものでしかない。(p.1)
ジャック・ラカン*1の提唱した「フロイトへの回帰」は「フロイトの経験への回帰」であった(ibid.)。では、如何にして「回帰」するか。

(前略)ラカンの「フロイトへの回帰」において、彼はとりわけ分析経験における言語の役割を重視した。ラカンは言語に焦点を当てることによって、分析経験の多様性にいっそう正確な形で接近できると考えたのである。
この方法は確かにまざましい効果を上げた。しかし、一方でラカンは言語の視点からの未経験を把握しようとしたため、分析経験における情動や感覚の役割が軽視されてしまうことになる。その後、ラカンの試みに対する反動として、アンドレ・グリーンは精神分析における情動の役割を強調し、ディディエ・アンジェは感覚の役割に注目したが、彼らの理論はラカンの試みを不完全な形で補完するに留まっている。結局、ラカン以降の精神分析も分析経験の多様性を、(ラカンが批判した)地が心理学とは別の形ではあるが、「変質」させてしまっているのである。(p.2)
そこで、「分析経験の多様性を把握することできる」(ibid.)、「経験を説明するだけではなく、経験を変えうる」(ibid.)精神分析理論として、「認知科学」とくにオートポイエーシスをベースとした精神分析理論が(以下)提唱されることになる。

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20050619 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20050707 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20050711 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060207/1139336690 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060905/1157462920 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20061020/1161323567 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20061107/1162862295 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070214/1171428168 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070613/1181756639 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080628/1214639902 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080722/1216726112 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080802/1217612463 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20081205/1228407951 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090219/1235062130 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090306/1236309160 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091106/1257520758 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20101213/1292264882 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20101213/1292269811 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110530/1306785462 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110829/1314543718 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110831/1314807916 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20111108/1320685431 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130321/1363866985 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130723/1374547496 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160318/1458227299 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/04/22/102037