「夏」も「冬」もなく

柿沼陽平*1『古代中国の24時間』から。


まず古代人の季節感覚を理解すべく、当時使われていた漢字に注目してみよう。そもそも「日」字は太陽、「月」「夕」は月、「朝」は月光のもとで太陽がくさむらからのぼるさま、「年」は穀物が実るさまの象形文字である。また一般に、「春」は草木が芽吹くさま、「秋」はコオロギのような昆虫の象形文字であるといわれている。つまり太古の人びとは、天文・穀物・生物のようすから、いちおう時刻や季節を感じとっていたことがわかる。
とくに農作業や商業に従事する者は鋭敏な季節感覚をもっていた。さもなくば、みずからの生業に影響が出る。そのため、かれらにとって暦は重要であった。各時代の君主はそうした民の生活を守るため、そしてなによりも天の意思を把握するというみずからの祭祀的役割を果たすために、天体観測にもとづいて暦を定めることを重視した。それは観象授時とよばれる。
そうしたなかで、一年を四季に分ける認識もはぐくまれていった。「夏」字と「冬」字は、殷代(紀元前一一世紀に滅亡)にはまだない、。けれども、冬至春分夏至秋分にかんする認識や、日の出・日の入を観測するシステムは、殷代よりもまえに、早々に整備されていた*2。(pp.37-38)
「殷」(商)以前に「夏」があったということになっているが、殷代の人が昔の王朝を「夏」と呼んだことはなかったというのは*3、字の面からもいえるわけだ。そもそも「夏」という字が存在しなかったのだから。
さて、干支は季節だけでなく、あらゆる時間的・空間的事象を統一的な枠組によって秩序づけることができる。殷代に「夏」や「冬」がなかったということは、干支というシステムはその頃には成立していなかったことになる。
なお、哲学的に言えば、「世界時間」(or「宇宙的時間」)と「社会的標準時間」(or 「市民的時間」)の関係の問題ということになるだろうか*4