「二里頭」は「夏」ではない

殷 - 中国史最古の王朝 (中公新書)

殷 - 中国史最古の王朝 (中公新書)

落合淳思『殷――中国史最古の王朝』からメモ。
といっても、「殷」以前とされる「夏」を巡って。中国で王権が最初に出現したのは、現在の河南省偃師市二里頭を中心とする「二里頭文化」においてである。「二里頭文化は、農耕や牧畜などの生産形態については新石器時代と大きな違いはないが、青銅器と王都が出現したことが特徴である」(p.16)。


なお二里頭文化の王朝は、文献資料*1に記された「夏王朝」と同一視されることもあるが、両者は想定される時代が近いものの、内容的には食い違いが大きい。
例えば、文献資料では夏王朝の支配範囲が「九州」であったとされているが、「九州」には沿海地域の兗州・青州・徐州、あるいは長江流域の揚州・荊州・梁州などが含まれており、黄河中流域のみを支配した二里頭文化の王朝の実態とは異なっている。また、最後の王である桀が暴君であったとする伝説が知られているが、紂王の「酒池肉林」伝説と酷似しており、それを模倣して作られたものにすぎない。
要するに、「夏王朝」は後代に作られた神話であり、二里頭文化に実在した王朝とは直接の関係がないのである。日本では、このことがよく理解されており、便宜上「夏王朝」と呼ぶことはあっても、文献資料の記述をそのまま受け入れている研究者はほとんどいない。しかし、中国ではいまだに文献資料の権威が強く、桀王の説話などを信じている研究者も見られるので注意が必要である。
ちなみに、二里頭文化に実在した王朝については、名前が伝わっていない。そもそも、二里頭文化に続く「殷王朝」も自称ではなく殷を滅ぼした周王朝による命名であり、おそらく王朝の名前を付けるということ自体が周代に始まった文化であると考えられる。(pp.18-19)
「二里頭文化」については、例えば許宏『何以中国 公元前2000年的中原図景』*2。ここでは、日本人の研究として、例えば岡村秀典『夏王朝――王権誕生の考古学』(講談社、2003)が言及されているが(p.135、177)、さて?